第32話 偽りの豊穣と野鴨の薔薇蜜グレイズ―黒胡椒とバルベリーのソース<下>
カムランは父たる絶対君主の顔を思い浮かべ、低く呟いた。
「……あれは、本当に皇帝の意志だったのか。大宰相が巨大な私兵基地を構築するために巧みに皇帝の目を欺き、侵略を誘導したのでは? 産地の偽装や横領も、軍事基地を建設し、維持するためのものではないのか」
「併呑したのをいいことに、今はファルハを私物化して食いものにしているのね」
「『薔薇の蜜漬け』はほんの一部にすぎないだろう。たまたま後宮で流行ったから表面化しただけだ」
カムランは大きく息をついた。
大宰相の野心はわかってきたが、今後どう動くべきか迷っている。
第二皇子派と大宰相派で潰しあってくれると一番ありがたいのだが、そううまく事が運ぶとは思えない。
気を取り直したようにシャハラが言った。
「そういえばお肉が来たの。鴨肉」
シャハラの声に、張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
――食事にするか。
声に出さずとも、互いの気持ちが伝わってくる。
「鴨か」
カムランも、腹を満たしたい気分になった。
シャハラはかまどに薪をくべ、料理を始めた。
冷暗所から野鴨の引き締まった胸肉を持ってくると、ぶ厚い皮目に細かく格子状の切れ目を刻んでいく。こうすることで火の通りを均一にし、余分な脂を落としつつ、後から加えるソースを中まで染み込ませるのだ。
次に乳鉢で粗く砕いた黒胡椒を、肉の両面にこれでもかと叩き込んだ。熱した鉄鍋には油を引かず、肉を皮目から放り込む。凄まじい音とともに、皮目から溢れ出た脂が官能的な白煙を上げた。
シャハラは匙を使い、その黄金色の鴨脂を何度も肉の表面に回しかける。アロゼと呼ばれるそのひと手間により、肉は自身の放つ旨味の熱で、しっとりとジューシーに焼き上がる。
カムランが鍋を覗き込む。
「何を作っているんだ?」
「大宰相の『虚偽』を使った肉料理」
肉の両面が香ばしく色づくと、シャハラは躊躇なくあの「偽の薔薇の蜜漬け」を、たっぷりと鴨肉の表面にかけた。
瞬間、厨房の空気が一変した。
不快なはずの安っぽい薔薇の香料が、激しい熱に晒されることでアルコール分が飛び、香木を燻したかのような妖艶な薫香に変化した。
さらに、粘り気のある黒い糖蜜が、鴨の肉汁と脂を巻き込みながら泡を立て、肉の表面に琥珀色の衣となって焼き付いていく。糖蜜のエグみは、赤身肉の持つ鉄分と熱によって、極上のジビエソースのようなコクに昇華された。
仕上げにシャハラが鍋に放り込んだのは、乾燥させた一掴みのバルベリー(ゼレシュク)だった。
鮮やかな赤色をした小さな実で、強い酸味がある。サフランライスのトッピングや肉料理の煮込み、ジャムなどに使われるスパイスだ。
さらに鍋の空いたスペースへ、肉から出た旨味の塊である鴨の脂を吸わせるように、蒸した小ぶりのカブと、甘みを蓄えた紫玉ねぎを放り込む。ルビー色に膨らんだバルベリーの紅が融け合い、漆黒のソースが完成する。
口直しとして、爽やかな酸味を持つ柘榴の果汁と刻んだミントで和えたシトラスのサラダが木皿に盛られた。
シャハラは鴨肉と野菜を大皿に美しく盛り付けると、カムランの前に差し出した。
「はい、『野鴨の薔薇蜜グレイズ―黒胡椒とバルベリーのソース』」
分厚い肉の切り口からは完璧な火入れによる薄紅色の肉汁が滴り、その上には本物の薔薇の花びらと、血に濡れたようなバルベリーの粒が散りばめられている。
「糖蜜を肉料理に使ったのか」
「うん」
「薔薇のいい香りがするな」
「新鮮な生の薔薇で上書きしたの」
カムランは料理を目で楽しんだ後、短刀で肉をひと口大に切り分け口へ運んだ。
瞬間、華麗かつ豊潤な衝撃が走る。野鴨の弾力のある肉から旨味と野生の脂が溢れ出す。
それと混ざるのは、サトウキビの糖蜜が肉汁と焦げて生まれた悪魔的なコクだ。薔薇の華やいだ香気が鼻腔を愛撫した直後、バルベリーの粒から目の覚めるような酸味が溢れ出し、脂の重さを一掃する。
口当たりはなめらかで、食べ応えがあるのに重くはない。
肉を噛み締めるたびに、血を沸き立たせるような力が全身に満ちてゆく。
「……美味い」
カムランは喉を鳴らした。
普段、宮廷の宴席で見せる一皿ごとに毒を警戒し、ちびちびと上品に口に運ぶ皇子の顔はどこにもない。
カムランは、今度は大ぶりに肉を切り分けて口に放り込んだ。口いっぱいに広がる肉汁に思わず唸ってしまう。
付け合わせの、鴨の脂を限界まで吸ってとろとろになったカブをハフハフと頬張り、玉ねぎの甘みを堪能する。
口に残る脂は、柘榴とミントのサラダでさっぱりと洗い流す。
計算し尽くされた味は、彼の食欲に火をつけた。
「シャハラ、このソースは反則だ。手が止まらん」
カムランは手を緩めず、夢中になって肉を喰らった。
頬を膨らませ、豪快に咀嚼するその姿は冷徹な策謀家ではなく、美味に感動する一人の若者でしかない。
「もっと焼く? 野菜もまだある」
残った肉の方を振り返りながらシャハラが尋ねた。
「ああ。お前も食べるといい。偽物の蜜漬けから、これほど美味いものが作れるとはな。まるで魔法だ」
漆黒のソースすらも、小さくちぎったパンで綺麗に拭い取って口に放り込む。
最後の一滴まで惜しむように楽しむカムランの姿を見て、シャハラはわずかに口角を上げた。
「ここでは、糖蜜も貴重な甘味だから。大宰相の強欲から生まれたものであっても、食材に罪はない。偽物も極上の味に変えて無駄なく使い切らないと」
「これはまた作ってくれ。肉と糖蜜を持ってくる」
「黒胡椒や野菜もお願いね」
鴨肉を平らげていく皇子を背にして、シャハラは包丁を握り、再び肉を切り始めた。




