第31話 偽りの豊穣と野鴨の薔薇蜜グレイズ―黒胡椒とバルベリーのソース<上>
西の空が血のような赤から深い群青へ沈みゆく夕暮れ時。
無数の官吏たちが足早に家路をたどり、大理石の回廊には柱の影が長く伸びている。
ひとたび夜の帳が下りれば、外廷も権謀術数が蠢く伏魔殿に姿を変える。
その宮城の片隅、ひと気のない内宮の文書庫の暗がりで、カムランは本宮の調達官を壁際に追い詰めていた。
埃とかび臭い羊皮紙の匂いが立ち込める中、肥え太った官僚は、首筋から止めどなく汗を流して小刻みに震えていた。
「お前は知っていたはずだ。白蓮の宮に納品した『薔薇の蜜漬け』が、南方の糖蜜で作られた紛い物であるということをな」
カムランは声音を落とし、目の前の男をねめつける。
「ヌルルが『味がおかしい』と泣きながら訴えてきたのだぞ。うら若き皇女に下賤な偽物を献上し、純真な心を踏みにじるとはどういうことだ。帝室を愚弄する不敬の極みではないか」
薔薇の蜜漬けを偽物だと看破したのはシャハラであり、ヌルルの件は嘘っぱちである。
日頃の「姪を溺愛する無害な皇子」という仮面を巧みに利用し、あえて私情を交えて激しく責め立てることで、相手の思考をパニックに陥らせる手法だった。これなら詰問しても不自然に思われない。
「お、恐れながら、カムラン殿下……!」
調達官はついに床に崩れ落ち、震える声で白状した。
「私とて献上する前に検品はしております。あれがファルハの蜂蜜でないことくらい承知しておりました。ですが、大宰相閣下が直々に『これは北から運ばせたファルハの特産品だ。皇妃方にも喜んでいただけるよう、滞りなく納入せよ』と仰ったのです。閣下のご命令に逆らうなど……ましてや偽物などと、一介の官吏にどうして言えましょうか」
必死にすがりついてくる調達官は、嘘を言っているようには見えなかった。
「どうか、このことはご内密に。何とぞ……」
その恐怖心につけ込み、カムランはさらに宮廷での大宰相の動きを徹底的に問いただした。
そして、さらなる事実を掴んだ。
征服され、帝国に併呑されたファルハは、大宰相メリクの管理下にある。
彼とその部下が全土を掌握しているが、なぜか「ファルハ総督」の地位は現在も空席のままであった。
大宰相も当初は併呑の褒美として総督の地位を求めたようだが、他の重臣たちが強硬に反対し実現しなかった。
大宰相は、今度は己の息のかかった者を総督に据えようと奏上を繰り返しているが、これも廷臣たちの反対に遭っているのだという。
カムランは疑念を抱いた。
――なぜ、帝国の大宰相が、北方の辺境地にこれほどまでに固執するのか?
ファルハは、大陸の東西南北の主要な交通路が交差する要衝地だ。主要な産業は農業くらいしかないにもかかわらず、行き来する隊商が落とす通行料と関税で潤っていた国だった。
確かに総督になれば旨味はあるが……他にも豊かな地域や属国はある。大宰相たる者が、そこまでこだわる地域とは思えない。
カムランは大きく息をつくと、今度は一転して、胡散臭いほどに破顔してみせた。
「そうか、他ならぬ大宰相閣下の意向であるなら仕方がない。私も国家の重鎮に逆らうつもりはない。ヌルルには我儘を言わぬようよく言い聞かせておこう。驚かせてしまってすまなかったな」
カムランは芝居がかった手つきで調達官を解放した。
陽が暮れ、宮城が闇に包まれるのを待ってから、黄昏の砂宮へ足を運んだ。
吹きすさぶ風が窓を揺らす、黄昏の砂宮の厨房。
そこには数日前に持ち込まれた「偽の薔薇の蜜漬け」の入った小瓶が、証拠品のように棚に鎮座していた。
カムランは外套の内に隠し持っていた一枚の羊皮紙を、卓の上に広げた。
「大体のことがわかってきたぞ」
カムランの声は、ほのかに凄みを帯びている。
「帝都に張り巡らされた物流の闇、その結び目を解きほぐしてきた。お前がその舌で看破した南方の糖蜜が、どこで加工され、なぜ『ファルハの献上品』として本宮へ運ばれてきたのか」
シャハラは静かに歩み寄り、カムランが広げた羊皮紙に視線を落とした。
それは密偵たちが集めた、帝国を中心とした諸国の勢力図だった。カムランの指が、地図の北西――シャハラの故郷ファルハを指し示した。
「お前の故郷ファルハは、通称『北の青薔薇』と謳われる要衝だ。南部は砂漠だが、北部は豊かな農地と水源を持つ穀倉地帯だ。険しい山に囲まれながらも、薔薇の谷では様々な種類の薔薇が生産され、段々畑には四季折々の作物が実る」
「そう。王宮の庭園には薔薇が咲き乱れていた。師匠はファルハ産の作物が好きで、一粒の麦すら無駄にはしなかった」
彼女の脳裏に、土にまみれたキアンの温かい手と、朝露に濡れた薔薇の香りが鮮明に蘇る。
「そして、今のファルハは……帝国の一部だ」
カムランはどこか憐れむような複雑な表情をした。
故郷を失った少女の傷を抉りたくはないのだが……事実から目を逸らすわけにはいかない。
「大宰相は、皇帝への上奏において『ファルハでは激しい抵抗に遭い、都や地方は焦土と化した』と報告している。戦乱で国の大部分が燃えて荒廃したとな」
「そんなはずはない」
シャハラの声が大きくなった。身を乗り出した彼女の顔は蒼白だった。
「都も城も制圧されたけど、燃やされてはいない。地方はわからないけど……」
「まあ、そうだろうな。電撃戦で都を落としたのに、わざわざ火を放つのは意味がわからん。帝国にとっても大損害だ。要するに、報告自体が意図的な虚偽なんだろう。『戦火によって農地の半分が焼失したが、現在は復興に努めさせ、属州として毎年特産品を献上させる』とまとめているが、ファルハの農地や薔薇の谷は焼失していないと思われる」
「よかった……」
シャハラは胸を撫で下ろし、大きく息を吐いた。膝の力が抜け、その場にへたり込みそうになるほどの深い安堵だった。
「安心するのは早いぞ。大宰相が欲したのは何もファルハの特産品だけではない。『北方の要衝』という他には代えがたい軍事的な地の利だ。現地に行ってみなくてはわからんが、どうやら大宰相は以前からファルハを『軍事中継基地』にしたがっていたようだ」
「国軍の基地を作るために?」
「いや、違う」
カムランは残念そうに首を振った。
「大軍を駐屯させ、大量の武具と兵糧を備蓄するための、大宰相直属の『私兵の城塞』だ」
「私兵の、城塞……」
シャハラは絶句した。
それは私腹を肥やすための横領という次元ではない。
帝国の屋台骨を内側から食い破る、反逆の産声ではないのか。
「こんな巨大な施設は一朝一夕で作れるものじゃない。前々から計画されていたことなんじゃないか」
「大宰相は、ずっと前からファルハを侵略する機会を窺っていたってこと?」
カムランは羊皮紙から視線を上げ、伏目がちになったシャハラの顔を見つめた。
「ファルハは現在、大宰相の管理下にある。……私は、ファルハを侵略し併呑したのは皇帝の意志だと考えていた。だが、大宰相のこの異常なまでの固執と軍事基地化の話を知った今、別の疑念が拭えない」




