第30話 ギュル・ベヤズは亡国の味がする<下>
「本物のファルハの薔薇の蜜漬けは、峻険な高山地帯に咲く『陶銀花』の花蜜を山蜂が集めた、極上の蜂蜜を使用する。蜂蜜は清冽な水のように澄みきり、万年雪のように冷たく、舌にのせれば触れた先から溶けて消える。儚くも高貴な甘さを持っている。……これは違う。この蜜は泥のように重く、粘り気があり、喉を焼くような品のない残糖感がある。おまけに加工所の匂いと植物の青臭さまでついている」
シャハラの脳裏には、大陸の広大な地図と食材の産地が重なり合って浮かんだ。
「これは蜂蜜じゃない。おそらくは南方、灼熱の太陽が照りつける湿地帯でしか栽培されない『サトウキビ』……それを煮詰めて作った『糖蜜』よ。薔薇の香料と微量のシナモンを混ぜることで、糖蜜特有のエグさを覆い隠している。こんな紛い物を金貨十枚で売りつけるなんて。悪質な詐欺としか言いようがない」
「南方……? サトウキビの糖蜜だと?」
カムランはハッとした。
「確かにサトウキビは南方の特産だ。帝国の最南端、総督ザッハームが支配する熱帯の属州でしか生産されていない。北のファルハとはまったく逆じゃないか」
「そう。北方のファルハの特産品を、正反対の南方の原料で偽造している。これは製造者のミスや一時的な誤魔化しという次元の話じゃない」
カムランは腕を組み、薄暗い厨房を見据えた。
彼の脳内で農業や流通の知識、諸侯の派閥図が複雑に絡み合っていく。そして帝国の版図とぴったり重なり合った。
やがて彼は少し苦しそうな声を漏らした。
「……なぜ、そんな手の込んだ真似をする。普通に南方の甘味として売ればいいものを。北方の『ファルハ産』と偽る必要がどこにある?」
「亡国の悲劇という『物語』が美味しいから」
シャハラが深い諦念を滲ませながら答えた。
「滅びた王家の悲劇。二度と手に入らない幻の味。客は、原料じゃなくて、物語に金貨十枚の値段を支払っている。帝国産の糖蜜はファルハでも売られていた。運ぶ手間があるから帝国よりは高いだろうけど、それでも市場では一瓶が銅貨二十枚程度。どれほど高級な品でも、銀貨で片がつく」
「市場価格が銅貨二十枚なら、原材料費ははるかに安いな。そこに薔薇の花びらと香料を放り込んで『ファルハ産』の看板を掲げれば金貨十枚に化ける。……ぼろ儲けだな」
「偽物を買った客は、そもそも本物の薔薇の蜜漬けの味を知らないから、詐欺を見抜けない。ひどい話。でも、私が気になるのは別のこと」
シャハラは声をひそめ、カムランの目をじっと見た。
「もし、彼らが偽物の蜜漬けを、後宮に蔓延するほど組織的かつ大規模にでっち上げているとすれば……高山で採取された本物の陶銀花蜜や、特産品は一体どこへ消えたの?」
「……ああ。そういうことか」
カムランは歓喜と恐怖が入り混じったような笑みを漏らした。
「ファルハを征服した大宰相は、本物の特産品を国庫に入れず、温存している可能性があるということか。単なる隠匿なのか、それとも裏の流通網で転売しているのかはわからんが……」
カムランは卓の古い木目を指先で強く拒絶の意を込めて叩いた。
「大宰相は、ファルハから収奪した富を皇帝に報告せず、私財として密かに溜め込んでいる可能性が高い。そして、味のわからない後宮の女たちに、南方の総督と結託して安価に作らせた『糖蜜の偽物』を、ファルハ産であるかのように見せかけて売りつけている。二重に金を吸い上げているのだ」
帝国の大宰相による巨大な横領と詐欺。
それを、シャハラは匙ひとすくいの不自然な甘みから看破してしまった。
カムランは内心舌を巻くしかない。
シャハラは淡々と続ける。
「本物の味を知っている人が食べれば、これが偽物で粗悪品だとすぐに気づく。二度とファルハの品を信用しなくなる。結果として特産品が売れなくなる」
「怒りに震えるか、亡国の王女よ」
「いいえ。私は料理人よ。産地の偽装と、ファルハの名前を使った詐欺が許せないだけ」
シャハラは小瓶の蓋を閉じた。
カチンという硬質な音が厨房に響く。
ドロリとした琥珀色の液体が、権力者たちの欲望そのもののように重々しく揺れている。
カムランは少し考えてから言った。
「大宰相がどれほど巧妙に偽造し、皇帝の目を誤魔化そうとも、物資の移動には必ず痕跡が残る。この南方の糖蜜が北の小国の特産品に化けるためには、荷馬車や秘密の倉庫、偽装作業を行う人間の手が必要になる」
南の熱帯から運ばれる大量の糖蜜の樽、薔薇や香料、後宮へ納入される物品の動き。これまでは見過ごしていた物流の動きも、突き止めれば重要な証拠になるだろう。
「兄アルマンの配下を使って、大宰相の不正の尻尾を掴む。奴らが南方から糖蜜を運び、偽造とすり替えを行っている『加工場』が、必ずどこかに存在するはずだ。調べてみよう」
カムランの決意に、シャハラも協力の意志を固める。
「殿下。私は後宮の厨房から、彼らの『嘘の味』を探ることにする」
「ああ、頼む」
亡国の味がする偽りの菓子。
カムランは思う。南方産の糖蜜自体に罪はないが、これを偽って暴利を貪る者たちにはいずれ罰が下されるべきだと。




