第29話 ギュル・ベヤズは亡国の味がする<上>
白蓮の宮の襲撃未遂事件以来、後宮には、嵐の前の静けさとでもいうべき奇妙な平和が漂っていた。
第二皇子ザイード派の軍事的支柱であった将軍たちが、一夜にして忽然と姿を消したのだ。
当然、軍部や派閥内では蜂の巣をつついたような騒ぎになるかとカムランは警戒した。
血生臭い報復合戦が始まることも覚悟していたが、今のところ目立った動きはない。
行方不明になった彼らを血眼になって捜索しているのか、あるいは彼らの死を悟り痛手をひた隠しにしながら、次なる一手に向けて新たな軍を編成し直しているのか。第二皇子ザイードの真意は、ようとして知れない。
ただ一つ確かなのは、気味の悪い沈黙が続けば続くほど、次に仕掛ける戦いは苛烈を極めるということだ。
カムランは、自身にできることを直ちに実行した。
権力闘争の巻き添えになりそうな弱き者たちを帝都から逃がす手はずを整えた。
その第一号となったのが、本宮の大料理長ファヒームの家族である。彼らは「地方の親戚の葬式に出る」という名目で密かに帝都を離れ、アルマンが駐屯する北辺の街・ヤジデに向かった。大将として北の防衛に専念している兄の庇護下に入れば、暗殺者の手も届きにくくなる。
カムランは今後も、自分たちに忠義を尽くすがゆえに人質にされそうな者たちを密かに逃がすつもりでいた。
第一皇子派も手をこまねいているわけではない。
第二皇子派が不気味に静かなのを好機と捉え、着々と宮廷内で地固めを行っていた。
軍部の空いた要職には息のかかった将校を送り込み、後宮内に潜む敵対派閥の間者たちを洗い出して監視網を敷いている。
アルマンから皇帝への献上品という名目で、警備の兵士を百人ほど宮城に入れ、白蓮の宮の護衛も大幅に増やした。
宮廷では相も変わらず、連日のように豪勢な宴が催されている。有力貴族たちはどの派閥につくべきか、中立を装って静観するべきか、笑顔の下で腹の探り合いを続けていた。
大宰相派の官僚や武官たちが、皇妃たちが主催する宴や交流会に顔を出すことはなかった。何度招待しても、何かと理由をつけて遠回しに断ってくる。
息子のアルマンの味方を一人でも増やしたいラミア皇妃は、なんとか大宰相派を陣営に引き込めないものかと頭を悩ませている。
そんな折、後宮の女たちの間で熱狂的な流行を呼んでいる菓子があった。
「薔薇の蜜漬け」である。
それは、大宰相メリクと隻眼の将軍ヴァイエルによって蹂躙され、帝国に併呑された北方の小国ファルハの伝統的な特産品であった。
薄紅色の薔薇の花びらを極上の蜂蜜に漬けたもので、ひとたび舌にのせれば天上の楽園を思わせる馥郁たる香りが鼻腔を抜け、肌を真珠のように輝かせると噂されていた。
滅びた国の幻の甘味という希少性が、後宮の女たちの虚栄心を煽ったのである。彼女たちは競うようにして買い求め、儚い蜜を陶然と舐め取っていた。
ある夜、カムランは「薔薇の蜜漬け」の小瓶を手に、黄昏の砂宮の薄暗い厨房を訪れた。
外套を脱いだカムランは、シャハラに美しい銀の細工が施された小瓶を手渡した。
シャハラは容器をしげしげと眺めた。
「珍しいものを持ってきた、と思っている顔だな」
「うん、薔薇の蜜漬けは久しぶりに見た」
「本宮の調達官が、ヌルルに献上してきたものだ。一瓶で金貨十枚は下らない最高級品らしい。が、あの子は甘いものを好まない。代わりにアニサ王女――お前に渡してくれと託された。故郷の味を懐かしみ、心を慰めてくれれば嬉しい、とのことだ」
シャハラは、ヌルルからの贈り物を手燭の灯りにかざした。透き通るような薄紅色の花びらが、黄金色の液体の中に重々しく沈んでいる。
後宮の女たちが「亡国ファルハの涙」と称してもてはやす希少品だが、シャハラの瞳に郷愁の色は浮かばなかった。
彼女は細い匙を手に取ると、小瓶を開けて蜜をひとすくいし、花びらごと自らの舌の上に落とした。
目を閉じてゆっくりと味わう。味覚を研ぎ澄まし、液体の成分を解剖していく。
最初に訪れたのは、不自然なまでに誇張された薔薇の香り。続いて舌に絡みつく、焼けつくような甘み。後味としてわずかに残る泥と鉄の匂い。
シャハラは目を開き、小瓶を悩ましげに睨んだ。
「……違う」
彼女の唇から漏れたのは、短い否定の言葉だった。
向かい側に立ったカムランは、シャハラから怒りのような気配を感じ取った。彼女と小瓶を交互に見た。
「どうやら、お前の気に入る味でもなかったようだ。故郷の味に再会して喜ぶかと思ったが」
「これは偽物よ」
シャハラの声は沈んでいる。
国を失った王女としての悲哀ではなく、味のわからぬ客に自分の料理を冒涜されたかのような憤りに満ちていた。
カムランは予期せぬ返事にぎょっとし、眉をひそめる。
「偽物? さっきも言ったが、本宮の調達官が皇妃や皇女、側室たちに献上するために選んだものだぞ。偽物が調達官の目をくぐり抜けたというのか」
カムランは小瓶を手に取ると、高くかざした。
液体に沈んでいる花びらは薔薇にしか見えないが……。
カムランの心を読んだようにシャハラは言った。
「花びらは本物の薔薇。安価な香油に漬け込んで強引に香りを移した粗悪品だけど。……問題はそこじゃない。花びらを漬け込んでいる『蜜』の方よ」
言い放つシャハラの眼差しは、獲物の急所を見定めたかのように鋭いものになった。




