第28話 宴の暗闘、朝焼けを映すバミヤと完熟トマトの清澄ショルバ<四>
運ばれてきたのは、シャハラがカムランのために用意しておいた朝まだきの軽食だった。
端の欠けた深皿に湛えられているのは、清らかな淡い紅と緑のスープ「朝焼けを映すバミヤ(オクラ)と完熟トマトの清澄ショルバ」だった。
「ショルバ」は、大帝国の版図から遥か東方の地まで広く食されている肉や野菜をじっくりと煮出したスープの総称である。
麦や豆を加えてとろみをつけ、身体を温める野戦食や日常の糧として親しまれる一方、子供や老人、病人向けの胃腸に優しい「癒やしの薬膳」の顔も持っている。
徹夜で神経をすり減らし、胃もたれを起こしやすいカムランにとって、これ以上のありがたい料理はなかった。
ショルバは、東の地平が割れ、光が溢れ出す直前の厳かな天空の色をそのまま写し取ったかのように美しかった。
湯むきされ、種を丁寧に取り除かれた完熟トマトの実と果汁が融け込んだ黄金の鶏出汁には、コリアンダーシードの爽やかな香りを移した香油が数滴落とされ、紅の海の中に金色の光芒を描き出している。
さらにスープの表面には、赤紫色で酸味のあるスマックの粒が、朝霧に煙る星屑のように散らされていた。
添えられているのは、焼きたての熱を帯びた「緑のカルダモン香る薄焼きパン(ホブズ)」。
そして、小鉢に盛られた琥珀のような「干しイチジクのシトラスコンポート」である。
宮廷料理に比べれば、質素な献立かもしれない。
だが、宮内で息を潜め、冷酷な殺戮を指揮してきたカムランにとって、これほど美しく心に迫る御馳走は存在しなかった。
カムランは木匙を取り、温かなショルバをすくって唇を潤した。
瞬間、彼の冷えきった内臓に驚くほど瑞々しく、角のない柔らかな酸味が染み渡っていった。口腔を満たしたのは、完熟したトマトが持つ大地の甘みと、スマックがもたらす野生の果実のような清々しい芳香。
そこにコリアンダーのほのかに柑橘を思わせる高貴な香りが重なり合う。凍てついた魂を優しく慰撫する洗練された味わいだった。
何より驚くべきは、そのなめらかな喉越しだった。
動物性の脂は見当たらないのに、スープには上質な絹のようなとろみがある。太陽を浴びて育ったバミヤが生み出す天然の滋養が、重圧に晒されていたカムランの胃壁を優しく保護していく。
「……美味いな。五臓六腑にこびりついたものが全て洗い流されていくようだ」
カムランの口から、深い吐息とともに称賛が漏れた。
「動物の脂やバターは一切使っていない。バミヤの天然の粘り気だけでとろみを出したの。仕上げのスマックとコリアンダーの香りは、あなたの疲れた身体を刺激しないはず」
説明しながら、シャハラは微笑んだ。
カムランはホブズをちぎり、紅蓮のスープに浸して頬張る。
パリッと焼けた生地に少しだけ練り込まれた「緑のカルダモン」が放つ、華やかで清涼な香り。
スパイスとは、本来人を癒し、活力を与えるためのものだと料理が雄弁に語りかけてくる。
イチジクのコンポートは、オレンジフラワーの蒸留水で柔らかく煮含められ、ほんの少し入れられた生姜の刺激が心地よい余韻を残した。冷たく甘い果肉が、疲れ果てた身体に染みわたる。匙を進めるごとに、カムランの血肉は脈動し、生を取り戻してゆく。
噛みしめるように味わうカムランの横顔を、シャハラは黙って見守っていた。
やがて、窓から差し込む光の色が変わった。
夜の深い黒や紫は払拭され、広大な砂漠の地平から、燃えるような黄金の太陽が顔を出す。厨房の石壁が薔薇色に染まり、二人の顔を清冽な朝焼けの光が照らし出した。
「……美味い。生き返った」
皿を見つめるカムランの目頭が熱くなった。
これが、暗闘を制した果てに手にした「勝利の味」だった。このように爽やかで優しく、身体の芯から温めてくれるものとは思わなかった。
「食後にこれを」
朝食を平らげたカムランの前に、シャハラが茶器を置いた。中身は赤銅色をした地封茶だった。茶からは、燻されたような重い匂いが漂っている。
カムランは怪訝な顔をしつつも口をつけた。
思わず顔をしかめるほどの強烈な苦味。間違いなく、あの黒カルダモンの抽出液の味だった。
「とんでもなく苦いな」
渋い顔をするカムランにシャハラは言った。
「レタスの芯から取った弛緩液をほんの少し入れた。このままじゃあなたの頭は熱を持ったまま休まらない」
「なるほど……」
カムランが苦笑したのも束の間。
シャハラの言葉通り、地封茶に潜んでいた薬効が、張り詰めていた彼の神経を解きほぐしていった。急に抗いがたい睡魔が襲ってきた。
「お前の手にかかれば……猛将も皇子も形無しだな」
カムランは、堪えきれず大きなあくびを一つ漏らした。
彼は立ち上がると、厨房の隅に積んである清潔な毛布を引き寄せ、そのまま石の床の上に身を横たえた。
薄れゆく意識の中で、カムランはシャハラの方へ顔を向け、重い瞼を半ば閉じながら言った。
「昼頃、起こしてくれ」
「うん」
「私は昨夜、宴を早々に切り上げた後……ここにしけこんで一晩中お前と一緒にいたことにする……」
暗闘の勝者でありながら、アリバイ作りにも余念がない彼に、シャハラは困ったような顔をした。カムランは朝帰りどころか、昼まで居座る気でいるらしい。
「……わかった」
その返事を聞き届けると同時に、カムランは深く安らかな眠りに落ちていった。
子供のように規則正しく、穏やかな寝息が厨房に響き始める。
シャハラはそっと彼に近づき、冷えないように毛布を掛け直した。休息を護るように手燭の火を吹き消す。
外からは朝を告げる鳥の声が聞こえ、太陽が今日という日を力強く照らし出し始めた。




