第26話 宴の暗闘、朝焼けを映すバミヤと完熟トマトの清澄ショルバ<二>
涼しい夜風が白大理石の回廊を抜け、甘い香気を運んでくる。
月明かりすら届かぬ庭園の最奥、鬱蒼と茂る木立ちの陰には、バドルが手引きして配置した三十数名の精鋭のうち、宮内への突入を担う先遣隊が息を潜めて待っているはずだった。
一人は早馬のごとく外へ飛び出し、後続の仲間を呼び寄せる手はずとなっている。
バドルは分厚い胸を大きく反らせ、闇に向かって突撃の号令を放とうとした。
(者ども、かかれ! 行くぞ!)
喉笛を震わせ、気合とともに叫んだ。
ところが、彼の分厚い唇から漏れ出たのは「ひゅう」という虚しい空気の音だけだった。
どういうことだ。耳がおかしくなったのか。
バドルはもう一度、腹の底から声を出す。だが、何度力んでもウンともスンとも声にならない。
自らの舌と喉の奥の声帯が、極寒の氷雪に閉ざされたかのように感覚を失っている。
それは、シャハラが黒カルダモン茶に密かに仕込んだクローブの極限濃縮液がもたらす恐るべき局所麻酔作用であった。
バドルは恐怖に目を見開き、自身の太い指で喉の皮膚を掻きむしった。爪が肉に食い込んでも痛みを感じない。これでは、すぐそこにいる部下たちに合図を送ることも突撃を命じることもできない。
宴席に残るタリムたちに知らせようと、慌てて身体を翻したが――次に彼を襲ったのは、頭蓋を激しく揺さぶられるような眩暈と、天と地が混ざり合う強烈な浮遊感だった。
レタスの芯から抽出された白い汁――ラクツカリウムの中枢鎮静作用と筋肉弛緩作用が、消化器官から吸収され、血液に乗って一気に脳に達したのだ。
バドルはなんとか前に進もうとしたが、両足は泥沼に深く沈み込んでしまったかのように重く、びくともしない。
それだけではない。全身の筋肉から、力が急速に奪われていく。
剣を握り、数々の戦場を血で染め上げてきた剛腕は、今やだらんと垂れ下がるばかりだった。
意識だけは鮮明である。
自分が叛乱の最中にあり、今すぐ動かなければならないことも理解している。それなのに、肉体を己の意志で動かすことができない。
バドルの巨体は一歩も進むことができぬまま、白大理石の冷たい床へ崩れ落ちた。ドスンと肉の塊が落ちる音が響いたが、声の出ない彼には悲鳴をあげることすらできなかった。
同じ頃、宴席に残ったタリム将軍ら四人も全く同じ運命を辿っていた。
「おい、バドルが遅いな。様子を見に……。な、何だ、これは……」
タリムが立ち上がろうとした瞬間、彼の舌は強烈に痺れ、声は濁った泡となって消えた。
隣にいる官僚に助けを求めようと手を伸ばしたが、虚しく空を切り、卓の上の銀の器をけたたましくひっくり返しただけだった。
周囲の客たちは、転げたタリムを悪酔いしたと思い、
「将軍ともあろうお方が、すっかり酒に呑まれておいでだ」
「こちらもお歳でしょうかな」
と冷ややかな忍び笑いを漏らした。
四人の武官たちの顔は、みな死人のような土気色に変色していた。声が出ない。身体が動かない。目ばかりがぎょろぎょろと動いて華やかな周囲の景色を映し出す。
徐々に視界も霞がかってきた。強烈な弛緩作用に抗いきれず、四人は次々と机に突っ伏し、あるいは椅子から落ちて床に倒れた。傍目には、深酒の末に前後不覚になり、昏睡してしまった不作法な男たちにしか見えなかった。
客が倒れたとあって、給仕たちがわらわらと群がってくる。彼らは介抱を装いながら将軍たちの身体を探り、身動きを封じるように衣服の帯をきつく縛り上げた。
そして、酔いつぶれた客を別室へ運ぶ名目で、他の客の目に触れないように注意を払いつつ、宮殿の裏手にある普段は使われていない地下室へ運び込んだ。
一方、カムランは外に出たバドルを追って絹の帳の裏側を伝い、夜の庭園へ走り出た。数人の男たちが音もなく這い出てきた。白蓮の宮の警護を担う去勢兵たちである。
彼らは黙って正門の暗がりを指差した。
そこではすでに、昏倒したバドルが転がっていた。外から兵士が突入してくる気配はない。号令が発せられる前に彼を潰せたことに、カムランは安堵の息を吐いた。
五人全員が無力化されたのを見届けると、カムランは傍らに寄って来たビジャンに鋭い声で命じた。
「手筈通りだ。見回りの衛兵を装い、外に潜む兵どもを散らせ。深追いはしなくていい。曲者だと騒ぎ立てれば、逃げるはずだ」
「御意。音と光で連中の目を眩ませ、追い立ててご覧に入れます」
ビジャンは数名の配下を連れて疾風のように飛び出していった。
すぐに、離れた場所からけたたましい銅鑼の音と、松明の炎が上がるのが見えた。それを確認すると、カムランは運ばれた五人を追って、地下室へ続く階段を下りていった。
よくも悪くも敵はならず者ではなく、正規の軍人だった。
下士官は上官の命令がなければ動けない。指揮も陽動も謀略も、考えるのは頭の役目であって手足ではない。
彼らが匪賊よろしく好き勝手に荒らし回ったら、数に押し切られていたかもしれなかった。
タリム将軍をはじめとする五人の将官たちは、どことも知れぬ石造りの地下室で目を覚ました。
彼らの舌には、数時間前に宴で呷ったカルダモンの焼けつくような苦味がこびりついている。
「これはどういうことだ。なぜこんなところに……」
痺れの残る舌を無理やり動かし、バドルが怒りに任せて剣の柄に手を伸ばそうとし、すぐに舌打ちをした。
白蓮の宮に入る際、儀礼に則り長剣を預けてしまっていたことを思い出したのだ。
麻痺と弛緩の薬効は抜けつつあったが、四肢にはまだ鉛を呑み込んだような気怠さが残っている。
彼らが壁を支えに立ち上がろうとした、まさにその瞬間だった。空気を切り裂くかすかな音と共に、放たれた無数の暗器が彼らを強襲した。
「なっ……!」
次の瞬間、バドルの太い喉から、鮮血が激しく噴き出した。彼の巨体は崩れ落ち、冷たい石床を血の海に変える。
部屋の入口から雪崩れ込んできたのは、黒ずくめの去勢兵たちであった。彼らは白蓮の宮の私兵たちである。
「敵襲、迎撃せよ!」
タリム将軍が絶叫し、残る三人の将たちも隠し持っていた短刀を反射的に引き抜いた。
薬に侵され、丸腰に等しい状態であっても、彼らは数多の死線を潜り抜けてきた歴戦の猛者である。
体内に残る痺れを気力でねじ伏せ、迫り来る去勢兵の刃を弾き返し、掠れる怒号とともに反撃を試みた。
地下室に激しい剣戟の火花が散る。肉を断ち、骨を砕く鈍い音が反響する。しかし、いかに歴戦の将とて、多勢に無勢、逃げることのできない地下に追い詰められては分が悪すぎた。
護身用の短剣しか持たない彼らに対し、去勢兵は長柄の槍や鋭利な長剣を容赦なく突き出してくる。
将軍たちの抵抗は長くは続かなかった。一人が背後から両膝の腱を断たれ、悲鳴を上げて崩れ落ちる。
もう一人は防御の隙を突かれ、四方から無数の刃で串刺しにされた。
反逆の熱に浮かされていた将軍たちは、冷酷無比な処刑人の刃によって次々と刈り取られていった。
「そんな……。我々が、こんなところで」
両手両足を貫かれ、這いつくばったタリムが、悪夢の只中にあるように虚ろな声で呟く。
絶望の眼差しの先、黒装束の男が悠然と入ってくるのが見えた。
隙のない足取りで血溜まりを避け、倒れ伏す将軍たちを冷たく見下ろす。
体調不良で宮から退出したはずのカムランだった。




