第23話 市場の異変と黒カルダモンの苦い罠<中>
「ファヒームか。どうした」
カムランが問いかけると、大料理長は周囲を血走った目で見回した。何かをひどく恐れているようだった。
彼は肥満した身体を震わせ、蚊の鳴くような声で言った。
「殿下、私はもう恐ろしくて……。どうしたらいいのやら」
「落ち着け。何があった」
二人はさっと壁際に寄った。
ファヒームは、息がかかりそうなほど顔を近づけてきた。
「み、三日後でございます……。三日後に白蓮の宮にて、外交使節も交えた交流会が開かれます。ラミア皇妃さまが主催され、官僚や武官、多くの客が招かれる盛大な宴にございます。私どもも席次を把握し、配膳の段取りも完了しております。それなのに、今日になって密命が来まして」
「密命? 誰からだ」
「第二皇子ザイード殿下の側近……顔を隠しておりましたが近侍の一人かと」
ファヒームの声は、恐怖のあまり裏返りかけている。
「や、奴らは、私の家族の命を盾に取って命じてきました。『宴の終わり、食後の菓子を出し終わったところで、指定する客に出す茶に特定の液を入れろ』と……。液を混ぜた茶を出せと言うのです」
「今度は茶……?」
カムランはごくりと唾を飲みこんだ。
「つかぬことを聞くが、先日香辛料庫からサフランがなくなっただろう。それを持ち出したのも第二皇子派か?」
「ぞ、存じません。私は何も見ておりません……」
ファヒームの異様に怯える様が、彼らの仕業であることを物語っていた。おそらく強奪ではなく、適当な理由をつけて堂々と運び出したのだろう。
サフランの横領や買い占めに続き、今度は白蓮の宮である。
一体何が起きようとしているのか。第二皇子派の動きが読めない。
「液を入れるのは何人だ」
「五人にございます。五人の席へ運べと」
「その液は、もしかして毒なのか?」
カムランが鋭く核心を突くと、ファヒームは激しく首を横に振った。
「違います。私も当初は毒かと思ったのですが、劇薬のたぐいではありません。入れるのは黒カルダモンを煎り焦がした濃縮液です」
「黒カルダモンの焦がし液?」
「はい。毒どころか、むしろ強力な『気付け薬』に近いものでございます」
「気付け薬……。五人というのは誰だ」
ファヒームは、カムランの耳元に五人の名を囁いた。その瞬間、カムランの顔はぴしりと強張った。
「なぜだ。なぜ宴が終わる頃にそんなものを飲む?」
「わかりませんが、殿下……これは何かの陰謀ではないかと。液を入れることでラミア皇妃さまの身に何かあったら……。ですから、こうしてご相談を」
ファヒームは涙目になりながら、許しを乞うように頭を垂れた。第二皇子派の命令に逆らえば家族の命が危ない。だが、陰謀の片棒を担がされて失敗すれば「口封じ」される可能性も高い。
どうすればいいかわからず、藁にもすがる思いでカムランに助けを求めたのだった。
「よく教えてくれた、ファヒーム」
「殿下、私が口を挟むことではありませんが、兄君にお伝えした方がよいのでは? 北辺のアルマン殿下に……」
それはカムランも考えないでもなかった。
が、すぐにその選択肢は捨てた。
北部の国境地帯に駐留しているアルマンは地方軍を束ねる大将であり、皇帝の命令でもない限りはおいそれと動けない。距離的にも無理がある。
「だめだ。今から早馬を出しても、伝令の鷹を飛ばしても間に合わない。兄がこのことを知る頃には、宴は終わっている」
ここは宮城にいる自分たちでなんとかするしかない。
カムランは震える料理長の肩を強く叩いた。
「お前はひとまず奴らの命令通りに動け。黒カルダモンの抽出液を作り始めろ。家族は裏から手を回して、安全な場所へ移す」
「は、はい。どうか何とぞ……」
「それと黒カルダモンとやらを少し分けてくれ」
「……お待ちを」
ファヒームは厨房へ走り、革の小袋を持って戻って来た。
袋からは、通常のカルダモンとは異なる重く燻製のような香りがした。カムランは袋を受け取ると、懐にしまい込んだ。
「ファヒーム、このことは誰にも話すな。いいな」
「御意に。殿下」
逃げるように去っていくファヒームを見送ると、カムランは身を翻した。
人目があるところでは皇子らしく鷹揚に歩いたが、ひと気がなくなると足を速めた。
まずは黒カルダモンが持つ薬理作用を知り、その上で対策を練らなくてはならない。カムランはすっかり闇に沈んだ回廊を、一陣の風のように駆け抜けた。
黄昏の砂宮に着くと裏口から忍び込み、まっすぐ厨房に向かう。
古びた木の扉を開けると、シャハラの姿が見えた。調理台の前で、真剣な眼差しで作業している。彼女は中庭で摘んだ野草と岩塩、古い胡桃の油を小瓶に慎重に注いでいた。
「何をしている、シャハラ」
カムランが歩み寄ると、シャハラは手を止めずに答えた。
「香油の抽出。高価なスパイスが手に入らないなら、似たような香りを作ればいいと思って。胡桃油の嫌な匂いを野草で打ち消しているところ。本宮の大料理長がやった『味の偽装』のもっと泥臭い模倣」
園遊会で用いられた偽のサフランの香り。
それを真似てか、シャハラは安価な素材から料理に使える香油を作り出そうとしている。彼女のあくなき料理人魂に、カムランは微苦笑した。
「面白いことがわかったぞ。……いや、帝国にとっては、波乱の足音と言うべきか。面白がってもいられないのだが」
カムランは、今日市場で聞いた「サフラン買い占めの事実」と第二皇子派が進めている「貨幣としてのサフランの流出」という推論を冷静ながらかすかに熱を帯びた声で語った。
「厨房のサフランを持ち去ったのは十中八九、第二皇子派だろうが、誰もそのことを追及できなかった。冠百合の宮も沈黙を守っている。第八皇妃の権力は、張り子の虎になりつつあるのかもしれんな」
シャハラは話が一段落すると、香油を混ぜる手を止めた。
「第八皇妃も見栄を張るのに必死なのね。料理人に小手先の誤魔化しを命じるなんて」
「とはいえ、これで図式は明確になった」
カムランは、両手を調理台の上に置き、獲物の喉首を狙う鷹のように身を乗り出した。




