第22話 市場の異変と黒カルダモンの苦い罠<上>
帝都の南、そびえ立つ城壁と広大な砂漠を繋ぐ街道沿いに網の目のように張り巡らされた巨大な市場。
ここは東西南北、大陸じゅうから集められた莫大な物資が集まり、金貨の擦れ合う音と商人たちの掛け声が響く帝国最大の取引所である。
一般客も買い物に訪れるが、卸問屋の仕入れなど、大規模な取引が主流である。
照りつける白日のもと、むせ返るような香辛料の匂いが漂い、絹や奴隷を乗せた隊商が行き交う熱狂の中、カムランは頭をすっぽり覆う頭巾と砂除けの亜麻の外套に身を包み、市井の商人に成りすまして市場に足を踏み入れた。
宮廷では「書庫に引きこもる無害な皇子」を演じている彼だが、外に出ればその限りではない。むしろ人目がない分、解放感に包まれて活動的になる。頭も冴える。
カムランにとって、市場の喧騒は単なる雑音ではなかった。立ち並ぶ天幕の数、荷車の轍の深さ、商人たちの表情、風に乗って漂ってくる匂い。そのすべてが、国家の生々しい経済状況を語る「生きた暗号」だった。
カムランは市場内の幾つかの香辛料問屋を回った。
店頭をざっと眺め、店内の様子も探った。
(……何かおかしい)
山積みにされた黒胡椒、シナモン、クローブ。
表向きは平時と変わらぬ豊かな品揃えに見える。
だが、カムランの目は、各店舗の最も奥、厳重な鉄格子で守られた「赤き黄金」の指定席が、軒並み空っぽになっていることを見逃さなかった。
サフランが、ない。
カムランは、馴染みの老商人が営む薄暗い天幕へ滑り込んだ。
世間話を装って、銀貨をさりげなく卓へ滑らせた。
主人は水煙草をふかしながら、さっと銀貨を絡めとった。やがて引き出された事実は、シャハラが後宮の厨房で見たものより、はるかに規模の大きなものだった。
「サフランの価格が、ここ一ヶ月で三倍以上に跳ね上がっていると?」
カムランは低く押し殺した声で問うた。
ただでさえ高価なサフランが市井でも枯渇し、急騰しているとは思わなかった。
「ええ、旦那。もう高すぎてね、欲しくても仕入れられないんでさ」
老商人は店内にいる他の客を気にしながら、声を潜めた。
「属国からの供給が途絶えたわけじゃありません。船は予定通り港に着いているが、品物が降りてこないんです。港に届いた端から、特定の商会が根こそぎ買い取って持っていっちまう。おかげで我々のような末端の問屋には、ただの一しべすら回ってこない始末でさぁ」
「……特定の商会とは?」
「金鎖商会です。最近、急に羽振りを良くした新興の連中でしてね」
その名を聞いた瞬間、カムランの中で燻っていた疑惑が一本の線に繋がった。
金鎖商会は、表向きは西部出身の商人たちを束ねる組合だが、ミフラーン家が出資しており、実態は第二皇子派の下部組織である。
第二皇子ザイードは、商才と金脈によって宮廷内に派閥を築き上げた野心家だ。武勇と剣の力で敵をねじ伏せるアルマンとは異なり、黄金で人心を買い、物資という絡め手で敵を懐柔する。
カムランは老商人の話に相槌を打ちつつも、内心では次兄らしいことだと感心すら覚えた。
後宮の厨房からサフランが消えたのは、横領されただけではない。帝国内に流通するサフランを買い占め、第八皇妃へ届かないよう「兵糧攻め」を行っていた節もある。
だからこそ、権力の絶頂にあるはずの第八皇妃マリハは、自らの主催する園遊会でサフランを使えないという屈辱を味わわされた。しかし、公にして騒げば「他の派閥に出し抜かれた」ことを認めることになる。密かに市井で調達しようにも、在庫がなく手に入らない。
ゆえに、彼女は大料理長に命じて味と色を偽装させ、権力の失墜を隠蔽しようとした。華やかな園遊会の裏では、皇妃や皇子たちによる経済戦争が極限に達していたのである。
カムランはそこで思考を止めなかった。
第八皇妃に嫌がらせをするためだけに、莫大な資金を投じてサフランを買い占めるわけがない。第二皇子派の真の狙いは何なのか。
「……そうか。資金の出所隠しと、さらなる軍資金の調達か」
思わず独り言を漏らすと、老商人が「旦那?」と怪訝そうな顔をした。
「いや、なんでもない」
カムランはもう一枚銀貨を与えると、天幕を出た。
サフランは軽く小さく、腐敗しにくく、大陸のどこへ行っても金貨と同等かそれ以上の値で取引される。
買い占められて高騰しているのなら尚更だ。
第二皇子派は、金貨をサフランという現物に換え、それを秘密裏に地方や他国へ運び転売している。
帝国の通貨が他国に大量に流れると足がつくが、サフランは詰め替えてしまえば出所はわからない。
サフランを貨幣代わりにして何を得ているのか。
地方の軍閥を味方にし、傭兵団を雇い入れ、第一皇子アルマンが率いる地方軍に真っ向から対抗しようとしているのではないか。
恐るべき仮説に辿り着いたカムランは、暗い興奮を押し殺しながらさらに市場を足早に巡った。
夕暮れ時になると、市場を出て都へ引き返した。
西から吹きつける砂混じりの熱風が、白亜の城壁を赤く染め上げている。
日没の残光が長大な影を引く頃、彼は密かに宮城に戻り、着替えて皇子の顔になった。
内廷に入り、回廊の裏手にある人通りの少ない連絡通路を歩いていると、背後から低く掠れた声がした。
「殿下。カムラン殿下」
カムランが足を止めると、壁のくぼみに潜んでいた影が這い出るようにして姿を現した。
目を凝らすと、後宮の主厨房を統括する大料理長ファヒームだった。
普段の彼は立派な官服を身に纏い、厨房と各宮を忙しなく渡り歩いている。しかし、今は大料理長の威厳は欠片もない。慌てて着替えたらしき衣服は乱れ、額には脂汗が滲んでいた。




