第21話 それぞれの攻防と白蓮の宮の女たち<五>
建前上、アニサ王女は大事な人質であり、皇帝の所有物である。高貴な虜囚ゆえに、一介の兵士や宦官たちにどうこうされることはない。
だが、それは「下位の者」に限った話だ。
暇を持て余す王族や大貴族の男たちにとっては、寄る辺なき亡国の王女は格好の慰み者だ。
アニサ王女は、都が陥落し城が制圧された時点で、虜囚になれば皇子たちに弄ばれる地獄がはっきり見えたのだ。
人質である以上、まともな結婚もできない。男たちに飽きられて捨て置かれるか、運がよければ家臣に下げ渡される。その程度の扱いだ。
沈鬱な表情を浮かべて俯いたシャハラに、カムランが口を開いた。
「ネダルはお前に興味を持っていた。ゆえに奴の動向を警戒していたのだが、砂宮の女たちが冠百合の宮に連れていかれたと知ってな。すぐにヌルルを呼んで宮へ忍びこんでもらった。男は招待されない限り、他の皇妃の宮には入れない。私が園遊会に踏み込むと大問題になる。そのため、入口の外に罠を仕掛けてネダルが来るのを待っていた」
カムランは私情を交えず、淡々と顛末を語った。
シャハラは顔を上げると彼をじっと見つめた。
「助けてくれてありがとう」
するとカムランは、飄々と肩をすくめた。
「いや、礼には及ばない。以前から、ネダルの悪行は目に余っていた。兵法書に書いてあった罠を試すいい機会だった」
だが、と彼の声は急に低くなった。
「次はない。少しでもおかしな真似をすれば、必ず息の根を止める。あれは歩く害悪だ。第八皇妃の怒りなど知ったことか」
カムランの声は平坦だったが、根底には血も凍るような殺気が渦巻いていた。
シャハラに罰を受けるべき咎は何一つない。
それなのに、下劣な要求に応じないというだけで、市中を引き回される罪人のごとく、人々の前で罵倒され足蹴にされ続けたのだ。彼女が受けた辱めを思うだけで、カムランは怒りで腸が煮えくり返る。
カムランの強い宣言を聞き、シャハラは彼がネダルとの暗闘に勝利したことを察した。第十皇子の邪悪な牙は、カムランの手によって折られた。もう大丈夫だと思うと、彼女の胸に安堵が広がった。
恐怖が去ると、料理人としての鋭敏な見識が頭をもたげてきた。シャハラは居住まいを正して言った。
「……話がある。今日、厨房で気がついたこと」
「ああ、聞かせてくれ」
カムランは頷き、続きを促した。
「園遊会に供されたコンソメスープ。あれには、サフランが一切入っていなかった」
「サフランが?」
予想だにしない話にカムランは目を見張り、ぐっと身を乗り出した。
「大料理長は香辛料の配合を緻密に操作し、代用品で色と味をごまかしていた。気になって香辛料庫を探ったら、サフランの箱だけが見事に空っぽだった。後宮の厨房にはただの一しべも補充されていないみたい」
「……馬鹿な」
カムランは動揺し、思わず呻いた。
「ここには、地方や属国から巻き上げたサフランが山のように備蓄されているはずだ。いかに高価とはいえ、後宮の宴の料理を誤魔化さねばならないほど枯渇するなんてあり得ない」
「うん。これは異常事態だと思う。食材が物理的に存在しないのか、あるいは『どこか別の場所』へ運ばれているのか……」
シャハラの放った何気ない言葉が、カムランの頭脳に雷のような閃きをもたらした。
彼は脳内で、政治・軍事の知識と「サフランの消失」という事実を結びつけ、恐るべき一枚の絵を描き出した。
「……サフランは単なる香辛料ではない」
カムランは詩でも吟じるように厳かに呟いた。
「あれは黄金と同等、いや、重さを考えれば金以上の価値を持つ『極めて運搬の容易な貨幣』だ。例えば軍を動かすには莫大な資金が要るが、金貨を運び出せば監査に引っかかる。しかし、サフランは……これ以上なく都合のいい『隠し資金』となる。秘密裏に地方の軍閥へ送ることも可能だろう」
シャハラは息を呑んだ。
「まさか第三皇妃と第二皇子派は国庫からサフランを横領し、軍資金として地方へ流している?」
「彼らの仕業なのかはわからないが……。しかし、後宮の香辛料庫から消えているのなら可能性としてある。外廷にあるサフランが消えたら、すぐに露見して騒ぎになるだろうしな。これは調べた方が良さそうだ」
ああ、とシャハラは顎に手を当てて思案した。
「なくなったのは後宮だけなんだ」
「サフランは薬でもある。戦においては、鎮痛と止血に用いる重要な戦略物資だ。資金と薬、その両方を兼ね備えた黄金の香辛料を、後宮のスープを誤魔化してまでどこかへ送り続けているとすれば……」
カムランの唇が、畏怖と歓喜の入り混じったいびつな弧を描いた。
「もしかしたら決起は近いのかもしれないな」
「決起?」
「謀反だ。彼らは着々と準備を進め、軍を動かすための秘密の『兵站網』を構築しつつあるのかもしれない」
二人の間に沈黙が降りた。
後宮の厨房から消えた香辛料。
そこから導き出されたのは、大帝国の根幹を揺るがす血生臭い内乱の足音なのか。
「これで見えない敵の急所が掴めるかもしれない」
カムランが冷静な声で沈黙を破った。
「我々は、料理人まで巻き込んだ『食卓の暗号』のほころびを掴んだ。シャハラ、お前の鼻はどんな密偵よりも正確だ」
「これは、どう料理するべきかな」
「まずは、奴らの隠し資金のルートを特定する」
カムランは勢いよく立ち上がった。
彼の瞳は、見えざる敵の尻尾を掴んだ狩人のように鋭い光を帯び始めた。




