第20話 それぞれの攻防と白蓮の宮の女たち<四>
すっかり日が落ちて、後宮が闇に沈み込んだ頃。
白蓮の宮にラミアの一行が帰還した。
冠百合の宮に散々居座ってあれこれと飲み食いした挙句、園遊会が散会したため戻ってきたのである。
入れ替わるように、シャハラは白蓮の宮の護衛たちに守られながら、人目を忍んで黄昏の砂宮へ向かった。
護衛は夜道で再び襲われたりしないように、ヌルルが手配してくれた。
黄昏の砂宮は、見捨てられた墓標のように冷たい静寂に沈んでいた。
門をくぐり、護衛たちが去るのを見届けると、シャハラは自室に戻って破れてしまった麻の服を脱いだ。
着替えてから外に出ると、砂宮の女たちの姿が見えた。
彼女たちはすでに戻ってきていたが、シャハラをちらちらと同情的に見るだけで近づいてはこない。
ネダルに拉致され、手籠めにされたと思っているのだ。
誤解されたままなのは屈辱だが、自分から触れ回るのも厭わしい。シャハラは逃げるように早足で歩き、ひっそりとした厨房に入った。
指を怪我しており料理をする気にはなれなかったが、厨房にいるのが一番落ち着く。
かまどの前にうずくまり、火を焚く。
火打ち石を叩き、乾いた薪に種火を移した。
パチパチと爆ぜる炎を見つめていると、昼間のことが否応なしに蘇ってきた。
男との圧倒的な力の差。玩具扱いされる絶望。
ネダルに引きずり回された恐怖が、泥濘のようにまとわりついて離れない。
香辛料庫で嗅いだ、吐き気を催すほどの麝香と酒の匂い。
もしあの時、ヌルルが介入しなければ自分は助からなかった。奥に連れ込まれ、身も心も蹂躙されていただろう。
「……大丈夫か」
背後の扉の方から、不意に聞き慣れた声がした。
ビクリと肩を震わせて振り返ると、そこにはいつものように食材の入ったかごを抱えたカムランが立っていた。
彼は平然と入ってくると、かごを卓の上に置き、中身を取り出し始めた。
出てきた食材はいつもと違っていた。
生の肉や魚、瑞々しい野菜や穀物ではなく、白パンやチーズ、干し肉、ゆで卵にピクルスが詰まった小瓶、山羊の乳、そして果物――どれも火を通さずに、すぐに口にできるものばかりだった。
「お前も食べるか?」
カムランのさりげない誘いに、シャハラは黙って頷いた。
白蓮の宮でも軽食や菓子が出されたが、ヌルルや侍女たちの目もあってあまり喉を通らなかった。
彼女たちの前では王女らしい振る舞いをせねばと思うものの、貴人の食事の作法はわからない。どうにも落ち着かず、食べ物にも手は伸びなかった。砂宮に帰ってきてから空腹を覚えたくらいである。
二人はかまどの火でパンを軽く炙り、山羊の乳を小鍋で温めた。温かい乳を啜り、簡単な夕食をとる。
熱い液体が喉を通ると、シャハラはようやく一息ついた。
パンや塩をつけた卵をもそもそと食べていると、カムランが口を開いた。
「お前が来るまで、私の食事は常にこういうものだった。まあ、今でもそうなんだが」
「冷たいものばかり。温かいスープがあるだけでも違うのに」
「今はお前の料理を口にしているから、だいぶマシになった」
カムランはかごの底に手を入れ、ごそごそと探った。
「菓子もあるんだ」
彼が取り出したのは、厚手の油紙に包まれた平たい焼き菓子だった。
紙を開くと、こんがりと黄金色に焼き上げられた手のひらサイズの「クルチェ」が姿を現した。
円盤型の表面には、専用の木型で押された緻密な花と幾何学模様の刻印が浮かび上がっている。
「半分やろう」
カムランが細く長い指先で菓子を手折ると、パキッと小気味よい音がした。
その瞬間、生地の中に閉じ込められていた香辛料の香りが一気に広がった。カルダモンの清涼な香りと、シナモンの甘く重厚な香りがふわりと立ちのぼる。
さっくりとした生地の断面からは、細かくすり潰された胡桃と、ナツメヤシの実を上質な蜂蜜で練り上げた濃褐色の餡が覗いていた。
差し出された半分を両手で受け取り、シャハラは一口かじった。
澄ましバターの芳醇なコクと、生地のホロリと崩れる繊細な食感が口いっぱいに広がる。
続くのは、ナツメヤシのねっとりとした濃厚な甘みと、胡桃の香ばしい歯触りだった。宮廷の菓子らしく、たっぷり使われた砂糖と蜂蜜の甘さが、傷ついた心身にじんわりと沁み渡っていく。
熱い山羊の乳と、ほのかに香辛料が効いた極上の甘味。
それは荒れ果てた荒野に降る慈雨のように、強張っていた神経を解きほぐしていった。
「悪くないだろう?」
カムランもクルチェをかじりながら、甘味を愛おしむように目を細めた。
「うん……美味しい。クルチェは好き」
「お前が好きならまた持ってくる」
菓子を食べ終わると、シャハラはようやく人心地がついた。
彼女は木椀を握りしめたまま、ぽつりと言った。
「ようやくわかった気がする。なぜ、アニサ王女が自死を選んだのか」
「……」
カムランは無言で次の言葉を待った。
「彼女はこうなることがわかっていた。誇り高きファルハの王女であるためには、自ら毒を呷るほかなかった……」




