第19話 それぞれの攻防と白蓮の宮の女たち<三>
ヌルルは衣服が破れ、あちこちに怪我を負ったシャハラをまじまじと見た。
痛々しい姿に少女は眉根をきつく寄せ、怒りをあらわにした。ふう、と大きく息を吐き出す。
「ネダルにやられたのね。信じられない、人以下のけだものだわ。早くくたばればいいのに」
ヌルルにとってはネダルも血の繋がった叔父のはずだが、同じ人間とは思っていないような辛辣な口ぶりである。
シャハラも顔をしかめながら手元を見た。
張り詰めていた緊張の糸が切れたせいか、急にズキズキとした痛みが押し寄せてくる。
爪の間には抵抗した際に掻きむしった血がこびり付き、両膝は生々しく皮が擦り剥けている。足のあちこちに細かい切り傷があり、足首には青黒い痣も浮かんでいた。
ヌルルはシャハラが痛みに耐えているのを見逃さず、肩にそっと手を置いた。
「騒ぎが収まるまで、ここで休んでいくといいわ。とりあえず身体を洗って手当しましょ。それから何か食べましょう。お茶やお菓子もあるから」
ヌルルは部屋を出て、信頼できる侍女を呼びにいった。
少女のまっすぐな優しさに包まれながら、シャハラはようやく安堵の息をついた。
一方のカムランは、光の通らない暗い地下にいた。
帝国の栄華を支える白亜の宮殿、その床下には迷路のような水路が広がっている。
外廷の最下層を貫く下水道――そこには宮廷に暮らす数万人が排出する日々の汚水や泥、汚物を飲み込んだ濁流が滔々と流れている。地下空間には、鼻を突く強烈な腐敗臭と、肺にへばりつくような重苦しい湿気が澱んでいた。
天井の至る所から滴り落ちる不気味な水滴の音が、冷たい石壁に反響し、死者の囁きのような不協和音を奏でている。
その最奥、汚泥が堆積する水路の淵で、第十皇子ネダルは両手足を太い麻縄で縛られ、泥土に顔を突っ伏した状態で意識を取り戻した。
激しい頭痛と吐き気が襲ってくる。
痙攣する彼の視界に飛び込んできたのは、粗末な麻の服をまとったカムランだった。
「目を覚ましたか」
カムランの声には、一切の抑揚がなかった。
彼は手にした短剣の切っ先で、ネダルの胸元を弄ぶように小突いた。
「な、なんだこれは。……ここはどこだ!」
「外廷の地下水路だ。どれほど声を張り上げてもネズミの鳴き声ほども響かない底の底だよ」
「は……? なんでそんなところに。放せ。今すぐ放せ!」
ネダルは手足を縛られたまま、芋虫のように身をよじった。カムランは無言でネダルの頭を掴むと、汚濁した水面へ容赦なく押し込んだ。
「がぼっ……!」
臭く濁った水がネダルの鼻と口に流れ込み、激しくむせ返る。数秒の後、水から引き上げるとネダルは狂乱して叫んだ。
「貴様、狂ったか。僕は皇子だぞ!」
「それがなんだ。私も皇子だ」
「お、お前の兄なんだぞ!」
「たかが一歳違いだろうが。そんなものは誤差だ」
じっと見下ろすカムランの目は、底知れぬ深淵のようだった。普段の温厚さはなりを潜め、命を摘み取る死神のような厳しい顔をしている。
「僕にかすり傷でも負わせてみろ。母上が黙っちゃいないぞ。お前など八つ裂きにして豚の餌に……!」
死線に立たされながらも、ネダルは虚勢を張って吠え立てた。
だが何を言っても、カムランは無表情のままである。
暗闇の中、音もなく短剣の刃が閃いた。ネダルの首筋から一筋の赤い血が流れ落ちた。
「つけたぞ、かすり傷」
チリッとした鋭い痛みと、首を伝う温かい血の感触。
一切の躊躇なく己を葬ろうとするカムランの殺意がネダルの五感に突き刺さる。
「私の行く末を心配する必要はない。お前はここで死ぬのだから」
淡々と、実験の経過を語るかのようなカムランの口調が、ネダルの全身に鳥肌を立たせた。
力を持たず無害なはずだった弟は、殺人を実行できるだけの度胸と、血も涙もない冷酷さを隠し持っていた。
「……馬鹿な。ぼ、僕を手にかけるなんて。お前は狂っている」
「何を言う。兄弟殺しはアルザ・ヴァーンドの伝統じゃないか。私もアルマンに認めてもらうためには、皇子の一人や二人始末しないといけなくてな。お前の首では不足だが仕方ない」
「第一皇子の犬め。お、お前の罪は絶対に露見するぞ!」
「……どうやって?」
「え?」
カムランは薄く笑い、ネダルの耳元に囁いた。
「ここで裸にして重りをつけて沈めてしまえば、お前は誰にも見つからない。腐敗して膨れ上がり、水中の虫や魚に食い荒らされた肉塊を、誰が第十皇子だと見分けられるんだ。誰もお前を見つけられはしないさ。ただの腐肉と骨になって、暗い地下を流れてゆくだけだ」
その瞬間、ネダルの心に巣食っていた傲慢さは粉々に砕け散った。
「ひっ……!」
喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。
これから受けるであろう暴力と死の恐怖のあまり、ネダルの股間からは生温かい液体が漏れ出し、ただでさえ汚れた地下水路をさらに汚した。
カムランはネダルの頭を再び掴むと、また汚水に沈めた。
「ぐぼぉっ、ごぼぼっ……!」
肺の空気が奪われ、泥が口に入り込む。
たっぷり十まで数えてから引き上げるとネダルは水を吐き出し、ボロボロと涙を流しながら言った。
「苦しい、やめてくれ。もうやめてくれぇっ」
「お前が今まで散々、立場の弱い者たちにやってきたことだろ。これで何人の女や下僕を溺死させたんだ。たまには自分でも味わえ」
カムランの胸の内で、どす黒い殺意が膨れ上がる。
もしシャハラがネダルに捕まり、その毒牙にかかっていたら、彼女も同じ目に遭わされたはずだった。想像するだけで、今すぐこの男の喉笛を掻き切ってしまいたい衝動に駆られた。
「待て、待ってくれ! 悪かった、僕が悪かった。頼む。殺さないでくれ!」
ネダルは無様に這いつくばり、涙と泥水と鼻水にまみれながら必死に命乞いをした。かつては全く同じ方法で他者を蹂躙し、笑っていた。今は命を惜しんで震える哀れな虜囚と化している。
「約束する。近づかない。もうアニサ王女には近づかない。あんな女、くれてやる。王女はお前のものだ。好きにすればいい!」
シャハラを貶める言葉が、カムランの逆鱗に触れた。
次の瞬間、カムランは容赦なく短剣の重い真鍮の柄を振り下ろし、ネダルの顔面を思いきり殴りつけた。
「ぎゃあっ!」
鈍い音とともにネダルの鼻骨が砕け、鼻孔から鮮血が噴き出す。
「アニサ王女だけじゃない。他のどの女にも、下僕にも、二度と汚い手を出すな。わかったか」
ネダルは痛みに顔を引き攣らせながら狂ったように何度も頷いた。
「わかった。何もしない。生涯、指一本触れないと誓うから許してくれ。命だけは……!」
「ならば、その血で誓約書を書いて署名しろ」
カムランは懐から、予め用意していた羊皮紙を冷たい石畳に投げ捨てた。腕を縛っていた縄を短剣で切り、片手だけ自由にしてやると、ネダルは震える手で自身の鼻と首から溢れ出る血を指にこすりつけた。
泣きながら「二度と他者を蹂躙しない。破れば己の命で贖う」という屈辱的な誓約書を書かされた。そして、ベッタリと己の血で指印を押す羽目になった。
カムランは誓約書を拾い上げて確認すると、ネダルの足の縄を切り捨てた。
そして、そのまま灯りを持ってすたすたと歩き出した。
途中で一度だけ振り返ると、思い出したように言い放った。
「ああ、言っておくがここは巨大な迷路だ。歩き続ければいつか地上に出られるだろうが、その前に水路に落ちて溺れないといいな。お前には似合いの最期だが」
カムランは床に転がったままのネダルを置き去りにして、闇の中に姿を消した。
その日の深夜、日付が変わる頃になって冠百合の宮に、一人の男がふらふらと戻ってきた。
満身創痍のネダルだった。彼が纏っていた純白の衣装は、地下水路の汚泥と汚物にまみれて元の色がわからなくなっており、全身から凄まじい悪臭を放っていた。
片腕には切られた麻縄がぶら下がったままで、顔はどす黒く腫れ上がっている。
虚ろな瞳は、魂を抜き取られたかのように焦点を結んでいない。
「ネ、ネダルさま?」
下女や宦官たちが異様な姿に悲鳴をあげる。
忽然と消えた息子を、血眼になって捜索させていたマリハが血相を変えて駆け寄った。
「ネダル、ネダル! どうしたの? 何があったの。どうしてこんなひどいことに……誰がこんな真似を!」
だが、幽鬼のような無惨な姿と成り果てたネダルは、母の金切り声すら耳に入らないのかガタガタと震えるばかりだった。
彼はとうとう一言も発しないまま、這うようにして暗い自室へ入っていった。この日以来、彼は自室に引きこもり、公の場に姿を現さなくなったのである。




