第18話 それぞれの攻防と白蓮の宮の女たち<二>
冠百合の宮では、異変を察知したマリハが不快げに眉をひそめていた。
「今、向こうの方からネダルの悲鳴が聞こえなかったこと? 衛兵、様子を見てきなさい」
マリハが長椅子から立ち上がろうとしたその時、宦官が血相を変えて天蓋の下へ駆け込んできた。
「大変でございます。第一皇妃ラミアさまが、急遽こちらへお見えになりました」
「どういうことなの。皇妃たちは呼んでないわよ」
マリハは苛立ちを露わにし、扇をピシャリと閉じた。
第一皇妃ラミアは、皇帝がまだ一介の皇子だった頃からの妻で、第一皇子アルマンの母でもある。
後宮においては、なかなかに厄介な政敵であった。
「それが後宮の庭園を散歩しておられたところ、急にご気分が悪くなられたとのことで……こちらの宮で休ませて欲しいと」
「そんな! 自分の宮に帰ればいいじゃないの」
宦官の報告と同時に、宮の入口が騒がしくなった。
中に強引に押し入ってきたのは、白孔雀の羽と純金、大粒の真珠でこれでもかと飾り立てられた巨大な輿であった。
それは移動する黄金の要塞であり、第一皇子派が持つ富と権勢をまざまざと見せつけるものだった。
絢爛たる装飾は、見る者の目を眩ませると同時に、後宮における絶対的な階位を突きつけてくる。
輿に付き従う数十人の侍女が色とりどりの花びらと香料を撒き、続く楽士たちが銅鑼や笛でけたたましい行進曲を奏でながら練り歩く。
急病人の一行とは思えない、度を越した派手な来駕である。ベルガモットの香りが風に乗って押し寄せ、マリハが用意した薔薇や百合の香りをかき消していく。
濃厚な油分を含んだ刺すような香気は、対立する二つの宮の意地と執念が衝突し、目に見えぬ火花を散らすかのようだった。
香りの支配権を奪うことも、後宮における政治闘争の一環である。ラミアの訪問は、明らかにマリハに対する嫌がらせと思われた。
「なんてこと。私の園遊会を荒らしにきたのね」
マリハはギリッと奥歯を噛み締めた。
宦官に手を取られ、豪奢な金の衣装を纏った老婦人が輿から降りてくる。
年月を重ねた顔には隙のない化粧が施され、身に纏う衣装の重厚な絹擦れの音が、後宮に長年住まう者の自信と矜持を醸し出していた。
マリハは怒り心頭ながらも、客たちの手前、作り笑いを浮かべて歩み寄った。
「これはラミア皇妃さま。随分と『賑やか』なご病気ですこと。お歳ゆえにお耳が遠いのでしょうけど、私の園遊会にはいささか騒々しすぎましてよ」
「あらマリハ、冷たいご挨拶ね。急な目眩で今にも倒れそうなのに、あなたにまで邪険にされるなんて。あなたとわたくしは同じ夫を持つ姉妹。妹が長姉を労わるのは当然の務めでしょうに」
ラミアは悪びれもせず、孔雀の扇の陰で勝ち誇ったように笑った。どこからどう見ても病人のそれではない。
「あなたの主催する会は、いつも地味なんだから。ひどく退屈で貧相な集まりと聞いて、わたくしが華を添えてあげようと思ったのよ」
「余計なお世話ですわ。私の大切なお客たちが、あなたの無神経な騒音に迷惑しております。体調が優れないのであれば、今すぐご自分の宮へお戻りになって!」
「嫌だわ、そんなに怒らなくても。陛下のお渡りが減って苛立っているのね。皇妃たるもの、もっと鷹揚に構えなくてはだめよ。頭の巡りが悪くて、勘違いの激しいところがあなたの美徳じゃないの」
「なんですって! この厚化粧の大年増!」
思わず叫ぶマリハに、ラミアはホホホと笑い、なおも意地悪く挑発を続ける。
「あなただってもう若くはないでしょうに大変ね。か弱い女をいたぶるしか能のない、でかくて馬鹿な息子の尻拭いに追われる毎日で。豚みたいにポコポコ子供を産んだのに、出来が悪くてご愁傷さま」
マリハの顔にさっと朱が差す。腹の底から激しい怒りが突き上げてきた。
「……なんてことを!」
園遊会の優雅な空気は瞬く間に霧散し、二人の皇妃による激しい言い争いが始まった。
客たちが見ている手前、敗北を喫するわけにはいかない。
マリハは息子そっちのけで応戦するしかなかった。
冠百合の宮を飛び出したシャハラだったが、逃げ出せたとしても、どこにも行き場はなかった。
ネダルは撒けたようだが、勝手に砂宮に戻ることもできず途方に暮れていた。
当然、後宮からも出られない。ほとぼりが冷めるまで、どこかに隠れているしかなさそうだが……。
迷っていると、そこに追いついたヴェールを被った少女が声をかけてきた。
「こっちよ。来て」
少女はシャハラの手を取ると、また軽やかに走り出した。
シャハラは、土地勘があるらしき少女を信じてついてゆくしかない。幾重にも交差する迷路のごとき回廊や、細い裏道を二人は駆け抜けた。
やがて二人は、冠百合の宮の反対側にある白亜の宮殿へ入った。
そこは、至る所に細い水路が巡らされ、清涼な空気に満ちた「白蓮の宮」であった。
磨き抜かれた大理石の床の下を、脈動のように流れる冷水。砂漠の熱気を吸い込んでもなお冷たく、外界の血生臭い騒音を遮断している。絶え間なく流れる贅沢なせせらぎが、シャハラの耳に優しく響いた。庭園の池には、陽光を浴びて輝く白い蓮の花が瑞々しく咲き誇っている。
案内された部屋は、少女らしい愛らしさと格調高さが同居する空間だった。
白を基調とした壁には植物の透かし彫りが施され、床には柔らかく毛足の長い絨毯が敷き詰められている。
名工が長い歳月を費やして織り上げた伝統的な文様が、室内に重厚な歴史の影を落としている。
長椅子には絹のクッションがいくつも転がり、棚には磁器の小鳥や、読み込まれた革装丁の書物を含んだ調度品が整然と並んでいた。
扉を閉めると、少女はふうと息をついて振り返った。
ヴェールを取ると豊かな栗色の髪がさらりと流れた。大きな瞳はシャハラと同じ淡い緑色だ。
「もう安心よ。ネダルは叔父上がなんとかするだろうし、第八皇妃はおばあさまが足止めしているから」
「叔父上? おばあさま……?」
戸惑うシャハラに対し、少女は誇り高く胸を張った。
「私は第一皇子アルマンの二番目の娘、ヌルルよ。ここはおばあさま、ラミア皇妃の宮」
「……あなたがヌルル姫」
ということは、カムランが手を回して助けてくれたのだろうか。一介の料理人に過ぎない自分を……? と思えば、喜びよりも羞恥がこみ上げてくる。
「助けていただいてありがとうございます」
シャハラが礼を言うと、ヌルルはふいと顔を逸らし、すまし顔で言った。
「そういうのはやめて」
「えっ?」
「ファルハの王女ともあろう人が、軽々しく礼なんて言っちゃだめよ。権威が下がるじゃない」
「でも……」
「だめったらだめ。人質だからって自分を安売りしない。あなたと私は血が繋がっているんだし。ほら瞳の色も同じでしょ」
「……」
ヌルルは親近感を抱いてくれているようだが、アニサ王女でない以上、血は繋がっていない。
シャハラは目の前の少女を騙しているような気がして、密かに罪悪感を覚えた。
「お礼やお詫びは、目上か同等の身分の者にしか言っちゃいけないのよ」
「私は……帝国のしきたりはよくわからなくて」
困ったように微笑むシャハラに、ヌルルはほんのり顔を赤くし、衣服の裾をきゅっと握りしめた。
「気にしないで。あなたがくれたお菓子……フェルニとサハレブが美味しかったから。父上には『一宿一飯の恩は決して忘れるな。それが帝族の誇りだ』と言われているの。恩を返しただけ」
シャハラが与えたのは一宿でも一飯でもなく、ただの甘くない菓子と乳飲料なのだが……ヌルルは、それらをことのほか気に入っていた。
砂宮に住まい、自ら料理をするという王女に、自分も会ってみたいと考えていた。
シャハラは言葉の裏にある少女の温かさに触れ、心がじんわりと潤っていくのを感じた。
「もしかして、ラミア皇妃さまも巻き込んでしまったのかな」
「ああ、それはいいのよ。おばあさまは第八皇妃と犬猿の仲だから。今日も園遊会の邪魔がしたくてうずうずしていたみたい。叔父上が何か言わなくても、勝手に乗り込んでいったと思う」
「そうなの?」
「うちが宴や園遊会を開くと、第八皇妃が嫌がらせをしてくるの。汚物や動物の死骸を投げ込んできたりして陰湿よ。お互い様だけど、やられっぱなしは嫌だからね」




