第17話 それぞれの攻防と白蓮の宮の女たち<一>
ネダルは、壁際に追い詰めたシャハラの腕を掴んだ。
「嫌だ。放して!」
シャハラは喉が裂けんばかりに激しく抗った。
なりふり構ってなどいられない。自由な方の手でネダルの胸を幾度も殴りつけ、その腕に歯を立てて暴れた。
ネダルはチッと舌打ちし、シャハラの髪を掴むと強引に引き寄せた。
「そう邪険にするなよ、アニサ王女。弟に許しておいて兄に許さない道理はないだろ。僕が直々に愛玩してやろうというのだ。光栄に思え」
ネダルの武骨な手がシャハラの衣服に食い込んだ。
布が嫌な音を立てて裂ける。シャハラは尚も身をよじり、激しく抵抗したが、男の圧倒的な力には敵わなかった。
「やめて。触らないで!」
「ここじゃ嫌ってことだろ」
「違う!」
「安心しろ。お前は腐っても王女、一応は従姉妹だ。妾くらいにはしてやるよ。……僕が飽きるまでだがなあ」
ネダルは、ニタリと血が滴るような凄惨な笑みを浮かべた。
腕を掴んだままずるずると引きずり、嫌がるシャハラを香辛料庫から連れ出した。
厨房は、数百の人間がひしめく喧騒のるつぼだった。
「助けて、誰か助けて!」
厨房に響き渡る包丁の音や火が爆ぜる音を圧するように、シャハラは声を振り絞った。
引きずられながら大理石の床に爪を立て、血の筋を残しながら必死に助けを求め続けた。
だが、男たちは誰一人として動こうとはしなかった。
料理人も下働きの女たちも、後宮の秩序を守るべき宦官たちですら、皇子が女を引きずり回すという凄惨な光景を前にして目を逸らし、何も見なかったことにした。
怯えと保身に染まった顔を下に向け、誰もが石像のように沈黙を守っている。
ネダルの悪癖は、後宮中に知れ渡っている。
そして、彼の乱行を諫めることは、第八皇妃マリハの逆鱗に触れることを意味していた。命が惜しければ黙っているしかない。正義も慈悲も存在しない。これが、アルザ・ヴァーンドの後宮の現実だった。
「どうして……どうしてなの。誰か、誰か!」
シャハラの訴えに、筆舌に尽くしがたい悲哀が滲む。
目の前で起きていることなのに、誰もが見て見ぬふりをする。
「お願い、助けて……。助けてください」
「無駄だ」
ネダルが不機嫌な声で振り返った。
「お前も馬鹿だな。母上に逆らえる奴がいるもんか。おとなしくしないと殴るぞ」
大理石の回廊を引きずられ続ける。
シャハラの膝は擦り剥け、髪は乱れきっていた。近寄ってくる者は誰もおらず、ただ遠巻きに見ているだけである。
抵抗する気力すらも、無視という集団の暴力によって削り取られていく。
やがて、まばゆい白日の光が彼女の目を刺した。
冠百合の宮の庭園だった。咲き乱れる花々と、絹の天蓋の下で笑いざわめく貴婦人たち。
絢爛たる園遊会のど真ん中に、シャハラは無惨に引き出された。
突如として乱入した二人、ネダルと彼に引きずられる娘という異常な光景に庭園の客たちは驚き、扇で顔を覆った。
薔薇のかぐわしい香りのなか、悲鳴と血臭に顔をしかめながらも、貴婦人たちは好奇の目でシャハラを見つめ、扇の陰でひそひそと囁き交わしている。眉をひそめる者はいても、御前に進み出る者はなかった。
天蓋の豪奢な長椅子に身を横たえたマリハは、帝国一と謳われる絢爛たる美貌の、もっとも麗しいとされる唇を歪めて笑った。
「あらあら、今日も私のネダルは元気だこと。お外で狩りでもしてきたの?」
「母上、お目汚しを。すぐに連れていきますゆえ」
ネダルが荒い息を吐きながら言った。
「こいつめ。おとなしくしろ」
抵抗するシャハラを蹴りつけながら、忌々しそうに叫ぶ。
「いいのよ。あなたは無礼講だから。奥で楽しんでらっしゃい」
息子の非道をたしなめるどころか、余興として楽しむマリハの冷酷な眼差しにシャハラはゾッとした。
彼らの前では、自分は人間の形をした玩具でしかないのだ。
庭園には、料理の皿や酒瓶を持った砂宮の女たちもいた。
女たちはシャハラの惨状に気づきながらも、真っ青な顔でなすすべもなく震えている。
水差しを持ったジリの姿も見えた。彼女はシャハラと目が合うと諦めたように首を振り、顔を背けた。
「……」
シャハラの瞳から、涙がこぼれそうになった。
キアンを殺された日のことが、否が応でも思い出される。
抗いようのない暴力が、再び彼女を蹂躙しようとしていた。
「ははっ、母上公認だ。挨拶する手間が省けた。よかったなあ」
ネダルが哄笑しながら、シャハラを宮の奥にある私室へ連れていこうとする。建物に引きずり込まれたら終わりだ。
「嫌だ!」
天蓋の裏手に回った瞬間、シャハラは爆発的な力で猛然と抗った。ネダルの胸倉に思い切り頭を打ち付けると、彼は一瞬怯み、手を放した。
その時だった。風のように軽やかな足運びで、音もなく近づいてくる影があった。
ヴェールを被り、上質な絹の衣を纏った少女が、ネダルの足首の絶妙な死角に革靴の先を滑り込ませた。
「うわっ!」
つまずいたネダルは、叫び声をあげながら前のめりに転倒した。拘束が解け、床に投げ出されたシャハラの耳元に、少女の囁きが落ちる。
「入口に向かって走って」
その声は幼くも不思議な威厳が漂っていた。
シャハラは弾かれたように立ち上がると、真正面に見える庭園の出口に向かって駆け出した。
「痛ってえ! ええい、逃がすかこの売女め!」
起き上がったネダルが、獣のように吠えながら追ってくる。
シャハラは脇目も振らず全力で走った。
連れ戻されれば地獄が待っている。
違う、ここは元から地獄だった。今まで無事でいられたのは、運がよかっただけなのだ。
背後から、ネダルの雄叫びが聞こえてくる。
冠百合の宮の豪奢なアーチをくぐり抜け、回廊へ入ると、そのまま一気に駆け抜けた。
叫びながら追ってきたネダルが、回廊に入った瞬間。
彼の足は、大理石の床に這わせてあった目視できぬほどの細い天蚕糸の張り線を弾いた。
カチャリと鋼の留め具が外れる音がし、ヒュンと空を切る鋭い風切り音が響いた。
それは、ただの罠ではなかった。
兵法書に記載されている人身捕縛用の罠を応用し、回廊の構造に合わせて組み上げた精緻極まる仕掛けだった。
天井の隠し梁の上に仕込まれた真鍮製の小さな滑車が回転し、柱の上に置いた巨大な鉛の重りが一気に落下する。
落下の勢いがすさまじい牽引力となり、頭上から投下された強靭な網の下側を瞬時に引き絞った。
網の縄目には微小な鉛玉が編み込まれており、中で獲物が暴れるほど絡みつくよう設計されている。
罠にかかったネダルは、鋼のように硬く編み込まれた麻網に全身を吞み込まれ、一瞬にして引き上げられ宙吊りとなった。
網はもがけばもがくほど深く食い込む。
四肢を折り曲げた無様な姿勢のまま、彼の動きは完全に封じ込められた。
「な、なんだこれは。誰か、誰かある!」
ネダルは叫び、みっともなく宙で手足をバタつかせた。
そこへ柱の陰から男が飛び出してきた。納入業者を装った軽装姿のカムランだった。
「お前は、むぐっ……」
カムランは躊躇うことなく網の隙間からネダルの口に布をねじ込んで声を封じ、吊り下げた縄を短剣で断ち切った。
ドスッと網ごと落ちたネダルを、あらかじめ用意していた頑丈な麻袋に押し込め、手際よく紐を結び上げる。
暴れて袋から出ようとするネダルの首の付け根を、麻袋の上から容赦なく打つ。
気を失ったのか、中の身体から力が抜けた。
カムランの一連の動作には一切の無駄がなく、流れるような美しささえ湛えている。
昏倒したネダルを引きずり、裏手に待たせてあった荷馬車の荷台へ放り込む。
間を置かず、カムランは御者台に飛び乗った。手綱を引き絞り、素早くその場を立ち去った。




