第16話 第八皇妃の園遊会と消えたスパイスの王<下>
疑念が確信に変わったのは、園遊会の主賓たちに出される羹――「黄金のスープ」と呼ばれる至高のコンソメスープが仕上げの段階に入った時である。
大量の牛の脛肉と丸鶏、数え切れないほどの香味野菜を三日三晩煮込んで濾した琥珀色の液体。
そこに、世界で最も高価な香辛料である「サフラン」をひとつまみ落とすことで、スープは神々しい黄金色に染まる。えも言われぬ甘美で高貴な香りを放ち、客たちを陶酔させるはずだった。
「料理長、お願いします」
スープ番の料理人がファヒームを呼ぶ声が聞こえた。
やってきたファヒームが銅鍋の蓋を開け、最終確認の味見をする。その瞬間、風下にいたシャハラの鼻がピクリと動いた。
(……サフランがない)
おかしい。立ちのぼる湯気の中に、あるはずの香りが存在しない。
シャハラは顔を上げ、さりげなく視線を銅鍋へ走らせた。お玉にすくわれたスープは、確かに黄金色に輝いている。
だが、シャハラはすぐに気がついた。
あれはサフランの色ではない。おそらくは別のスパイス、サフラワー(紅花)か、ごく微量のターメリック(秋鬱金)を煮出して色だけを偽装している。
単なる入れ忘れか?
あるいは分量を間違えたのか?
いや、違う。一流の料理人であればあるほど、味や香りの要となるスパイスを忘れるという初歩的な過ちは犯さない。
大料理長は「サフランを使えない」という明確な事実を前にして、己の持てるすべての技術を動員し、主賓の舌を欺く代替品を作ったのだ。
なぜそんな真似をしたのだろう。
大帝国アルザ・ヴァーンドの主厨房において、食材が足りないという事態はまず起こらない。
床に落ちた高級な肉を犬にくれてやるほど富にあふれたこの場所で、なぜサフランは使われなかったのか。
シャハラは音もなく立ち上がった。
汚れた手を拭い、周囲の女たちが皮むきや配膳に気を取られている隙を突いて、密かに厨房の奥に進む。
ここの勝手はわからないが、食材庫は大抵厨房の熱源から離れた場所に隣接している。かまどから遠く、香辛料の匂いがする方へ行けば間違いないだろう。
やがて「香辛料庫」を探し当てると、用事を言いつかって来た風を装い、中に滑り込んだ。
薄暗い庫内には、市場にあふれている安価なものに加え、黒胡椒、カルダモン、クローブ(丁子)、メース(ナツメグの皮)、本真珠粉、乳香といった高価で貴重なスパイスが麻袋に入って積まれていた。
香りの宝庫をシャハラは迷いなく進み、もっとも奥の棚に鎮座する象牙と黒檀で作られた箱の前に立った。
サフラン専用の定位置である。彼女はそっと箱の蓋を押し上げた。
驚いたことに中は空であった。
ただの一本、赤い雌しべの欠片すら残っていない。
シャハラの背筋を、氷の刃が滑り落ちるような戦慄が駆け抜けた。
サフランは香辛料の王。数万個のクロッカスの花からわずか一握りしか採れない、この世で最も高価なスパイスだ。
単なる料理の香り付けだけでなく、万能の霊薬として、あるいは特権階級の富の象徴として、帝国には莫大な量が備蓄されているはずだった。
それが、何があったのか跡形もなく姿を消している。
昨日今日に入り込んだ泥棒の仕業だろうか。
いや、大量のサフランを盗み出せばすぐに発覚するし、何より大料理長を始めとした料理人が騒ぎ立てるはずだが、その気配もない。
むしろ、大料理長自身がサフランの欠品を誤魔化すようなスープを作っている。
これは、国家の中枢に関わる異常事態ではないのか。
(サフランが後宮から姿を消した……。これはただの食材の枯渇じゃない)
シャハラは空の箱を閉じると、知ってしまった事実を腹に呑み込み、扉の方へ向かった。
――あと少しで扉の取っ手に手が届くという時だった。
隙間から差し込んでいた光が、唐突に何者かによって遮られた。
「こんな所にいたのか。見つけたぞぉ」
鼻をつくような酒の匂いと、過剰に振り撒かれた麝香の香水。
香辛料庫の入り口に立っていたのは、第十皇子ネダルだった。白地に金の縫い取りをした豪華な衣で正装しているが、暑いのか首元の襟はだらしなくはだけている。
ネダルは退路を塞ぐように扉を背にして立つと、シャハラをじろじろと舐めるように見つめた。
泥と煤で汚れた身体に粗末な麻の服。
本来ならば一顧だにしない下流の女であるが、よくよく見れば整った気高い顔立ちをしている。
ネダルの歪んだ嗜虐心は、その汚れた粗末な姿にこそ強い興奮を覚えた。これは、まったくもって悪くない。
砂宮からやってきた女たちの中で、若い娘はシャハラだけだった。ネダルはカムランが熱心に通う女――アニサ王女に違いないと踏み、後をつけてきたのである。
「あいつは隠したつもりでいるんだろうが、僕の目は誤魔化せない。お前がファルハのアニサ王女だな」
耳にねばつくような声。ネダルが獲物を追い詰めるように、庫内へ一歩踏み込む。
シャハラの全身が嫌悪で総毛立った。ジリが忠告した「飢えた獣」が、まさに今、目の前にいる。
「薄汚れているが、水に沈めればきれいになるだろう。僕が直々に、隅々まで洗ってやるよ」
ネダルの顔に好色な笑みが張り付く。彼の手がぬるりと伸びてくる。
「こ、来ないで……! 」
シャハラは叫んで後ずさった。が、背中はすぐに積み上げられた麻袋の山にぶつかってしまった。
ネダルはヒュウと口笛を吹いた。
「いいねえ、その顔。母上に頼んで、砂宮の女たちを呼んでもらった甲斐があった」
扉の外では厨房の様々な音が響き渡り、悲鳴は誰の耳にも届かない。
甘く重たいスパイスの香りが充満する空間で、シャハラはじりじりと追い詰められていった。




