第14話 冬瓜の白蜜フェルニと胡麻塩引きサハレブの土産、第十皇子ネダルの挑発<下>
砂宮を出たカムランは外廷にある己の住まいへの帰途についた。
右手に持ったかごには、白蜜フェルニを入れた蓋つきの器と、サハレブの入った陶器の瓶が入っている。編み目越しに伝わるかすかな温もりが、シャハラという少女の存在を彼に実感させていた。
このままをヌルルに渡そうと彼は思った。シャハラのアドバイス通り、サハレブは飲む前に温めるよう伝えることも忘れずに。
頭上では鉛色の雲が月を完全に隠してしまい、宮城の広大な敷地には夜闇の帳が重く垂れ込めている。
外廷の回廊を進む。
一定間隔で掲げられた松明の炎が、石柱に刻まれた猛獣の意匠を不気味に照らし出していた。
掃き清められた石畳を歩いていると、前方から乱れた足音とともに、むせ返るような麝香と強い酒の匂いが漂ってきた。
「おや? こんな夜更けに、下賤の匂いがすると思えば……我が愛すべき弟カムランではないか」
粘りつくような、それでいてどこか甲高い耳障りな声。
暗がりから姿を現したのは、豪奢な紫衣に身を包んだ男だった。
第十皇子ネダルだった。上質な絹の衣には金糸で孔雀の刺繍が施され、十本の指にはめられた幾つもの指輪がチャラチャラと鳴る。脂ぎった顔は酒気で赤黒くむくみ、口元はだらしなく緩んでいる。
背後には、彼の威光を笠に着る下級貴族の取り巻きが数人、薄気味悪い笑みを浮かべて控えている。
カムランは不快感から眉を顰めた。
ネダルはカムランが宮城に居を移した頃から、ことあるごとに突っかかってくる面倒な男だった。
カムランより一つ上の異母兄だが、彼を兄だと思ったことは一度もない。
ネダルは、皇帝の寵愛厚き第八皇妃マリハを母に持つというだけで、己を特別な存在だと錯覚している。
端的に言えば、軽薄で、残虐で、無能。たいした働きはないのに、女癖の悪さと嗜虐趣味だけは一人前だった。
女とみれば見境なく、これまでも女官や下女を幾人も慰み者にしてきた。ことが明るみに出るたびに、母のマリハが権力と金に物を言わせて揉み消していることは公然の秘密だった。
「カムラン、お楽しみの帰りか?」
ネダルは薄笑いを浮かべ、カムランの手元にあるかごに卑しい視線を向けた。
カムランは顔を背け、そのまま横を通り過ぎようとした。
ネダルは千鳥足を踏むふりをして、カムランの行く手を塞いだ。両手を広げて立ちはだかる。
「おいおい。冷たいじゃないか。兄の挨拶を無視するとは、弟として礼儀がなってないな」
「……どけ。お前の吐いた息を吸うだけで肺が腐る」
冷たくねめつけるカムランに、ネダルは臆する風もなく肩をすくめた。
「聞いたぞ。お前は毎晩のように奥にしけこんでいるそうだな。ああ、まったくもって驚いた。老いぼれしかいない砂宮に通うなんて、酔狂にもほどがあると思っていたが……」
ネダルはそこで区切り、獲物を値踏みするような下卑た笑いを深めた。
「アニサ王女とやらは、そんなにもいい女なのか」
その言葉に、カムランの顔は強張った。
心臓を氷の手で鷲掴みにされたような、鋭い悪寒が背筋を駆け抜ける。
ネダルは、カムランの夜の行動を知っていた。
当然のことながら、カムランが持つ権限は、他の皇子たちも持っている。
当初の目的は、第一皇子派に属するカムランの粗探しをするためか、あるいは単なる下世話な好奇心からか。配下に調べさせたのか、砂宮にいる宦官や去勢兵に小金を握らせて聞き出したのかはわからないが。
いずれにせよ、砂宮に住まうシャハラは、この軽薄で残虐な男の視界に入ってしまった。カムランは舌打ちしたい気分になった。
言い返してこないカムランに、ネダルの声はさらに高くなった。
「なあなあ、だったら僕にも貸してくれよ。王女の味見がしたいんだよ。婢は喘ぎ声が汚くていけないからさあ。高貴で誇り高い女をさんざんいたぶって、這いつくばって許しを乞わせて、ヒイヒイ言わせるのは最高だろうな。なんだったら今から三人で……」
ネダルの取り巻きたちが、くすくすと下卑た愛想笑いを漏らす。
カムランの瞳の奥で何かがチリリと燃えた。
普段は感情を表に出さないようにしているが、シャハラを侮辱し踏みにじろうとするネダルには、腹の底から怒りを覚える。
「失せろ、外道」
カムランの声は低く、極北の氷のごとく凍てついていた。
彼は相手を射抜くような勢いで一歩前に踏み出し、腹の底から声を絞り出した。
「王女に近づくな。もし砂宮に一歩でも足を踏み入れたら、ただでは済まさない」
それは単なる警告ではなく、喉元に刃を突きつけるに等しい牽制だった。
普段は何をしても無視するカムランが見せた凄みに、ネダルは一瞬だけ怯んだ。
だが、すぐに己の虚勢を取り繕うように両手を広げ、懐から扇を取り出した。
「おお、怖い怖い! たかが女一人に必死すぎだろう」
ネダルは嘲笑いつつ、カムランの胸元を扇の先で強く突いた。
「勘違いするなよ、カムラン。ああ? お前みたいなひ弱なカスなんか誰も相手にしないんだからな。アルマンだって、お前のことは便利な頭数としか思っちゃいないさ。女だって同じだ。お前が抱けるのは最下級の下女か奴隷女くらいだ。いや、人間すら勿体ない。牛か羊とでもやってろ」
ネダルはひととおり毒を吐き捨てると、カムランから離れた。取り巻きたちとともに哄笑しながら、踵を返して去っていった。
静寂が戻った回廊に、カムランは一人取り残された。
扇で突かれた胸のあたりを払いながら、彼はきつく奥歯を噛み締めた。
ネダルの言葉が悔しいわけではない。あのような底の浅い男の嘲りなど痛くも痒くもない。彼が恐れているのは、シャハラの身に危険が及ぶことだった。
第八皇妃マリハの権力を盾にしたネダルなら、砂宮に踏み込むことは造作もない。もし、あの男の汚い手が彼女に触れようものなら……。
想像するだけで、かごを握る手に力がこもる。
自分には力がない。それは動かしようのない事実だ。
だが――ない者には、ない者なりの戦い方がある。
カムランは重い決意を胸に、石畳を踏みしめるようにして歩みを再開した。




