第13話 冬瓜の白蜜フェルニと胡麻塩引きサハレブの土産、第十皇子ネダルの挑発<中>
問いに対し、シャハラは包丁を柔らかい布で拭いながら、どこか冷めた目で卓上のものを見つめた。
「少なくともあなたを憎んではいない。あなたが、私の師匠を殺したわけではないから」
シャハラの声音は平坦で、どこか投げやりな響きがあった。
「ファルハの王族に忠誠を誓っていたわけでもない。師匠と一緒に王城で働いていただけ」
「だが、お前もお前の師匠とやらも宮廷料理人だったんだろう?」
「好きで王宮勤めになったわけじゃ……師匠だって。私たちは、元々は下町で暮らしていたんだもの」
彼女の中にかつて暮らしていた王都の下町、土埃と喧騒、熱気にあふれる市井の思い出が蘇る。
「話してくれ」
カムランはサハレブを啜りながら、続きを促した。
「なぜ?」
「なぜって?」
「どうして私のことが知りたいの?」
シャハラはカムランの目をじっと見つめた。
「それは……」
カムランは困ったように目を逸らした。
「純粋に興味があるからだ。帝国の外で暮らしていた料理人の話なぞ滅多に聞けないしな。私は常に外の話に飢えている」
「そう」
シャハラは嘆息した。しばらくして、彼女は降り積もった灰を払うかのように重い口を開いた。
「私は孤児だったの。師匠に会う前のことは何もわからない」
話しながら、過去の糸をゆっくりと手繰り寄せる。
「師匠であるキアンは、王都の片隅で小料理屋を営んでいた。出す料理がとんでもなく美味しいと評判の店で、毎日、陽に灼けた車引きや職人たちであふれかえっていた。大きな土鍋で米料理が炊き上がると、皿を持った人たちが詰めかけてあっという間に完売してしまうような、活気のある店だった」
シャハラは、自身の鼻頭にそっと指先を当てた。
「ある日、店を閉めた後、ぼろ布をまとった野良犬のような子供が迷い込んできた。言葉もろくに話せなかったのに、異常なほど鼻がよく利いて……。師匠が残飯を与えたら、厨房にある何十種類ものスパイスを嗅ぎ分けて、料理に使われているものを正確に当てたみたい。その子供が私。師匠は『手伝いくらいには使えるだろう』と思って私を拾ってくれた。初めて会った日を、私の四歳の誕生日ということにしたの」
それが、シャハラの人間らしい人生の始まりだった。
キアンの厳格かつ温かな指導のもとで、毎日かまどの火の番をし、食材の泥を洗い落とし、調理の基礎を学んだ。
朝起きると馬車に乗せられて市場へ仕入れに向かい、店に戻るとひたすらに仕込みをする。
昼近くに店を開けると客が押し寄せ、作る料理は端から飛ぶように売れていった。食材がなくなると店じまいで、大抵は夕方には閉めてしまった。
夜はキアンの作る賄いを食べ、独特の地封茶、冬ならばサハレブを飲みながら火床の前でのんびりと過ごした。
キアンを師と仰ぎ、修行を兼ねて店で働く生活は、シャハラにとってはこの上ない幸福な日々だった。
「でも……そんな楽しい日々は数年で終わった」
シャハラの声が沈む。
「店の評判を聞きつけた国王が、師匠を宮廷付きの料理人として召し出したの」
召し出しという麗々しい言葉を使ってはいたが、これは実質的な強制だった。王命に逆らえば首が飛ぶ。
シャハラは店を閉めた後の厨房で、卓に座ったキアンが安酒を呷りながら途方に暮れていた光景を覚えている。
彼は頭を抱えながら、絞り出すように言った。
『俺はメシを作ることしかできない。働かないと食えないから料理人をしているだけだ。目立ちたくない。ひっそりと生きていたいんだ』
そんなキアンを見るシャハラの胸も締めつけられた。
「師匠は王宮勤めが嫌で、本気で夜逃げも考えたみたい。でも子供の私を抱えて逃げるなんて、土台無理な話だった……」
結局、キアンは店を畳み、シャハラの手を引いて王城の門をくぐった。
宮廷料理人とその見習いという名目で、王城の片隅で暮らすようになったのである。シャハラの胸には、自分が枷となり、キアンの人生を縛り付けてしまったという負い目が生まれた。
どこであっても、キアンの作る料理は絶品だった。
国王にも気に入られ、よく呼び出されていたが、本人は宴席などの人前に出ることをひどく嫌がっていた。気苦労も多く、次第に頬はこけ、気難しげな顔をすることが多くなった。
「師匠はよく上の人たちに呼び出されていたけど、私は王族には一度も会ったことがなかった。知らない人に忠誠なんて誓えない」
「世継ぎであるアニサ王女ともか?」
カムランの問いにシャハラは頷いた。
「私が初めて王女に会った時、彼女はすでに冷たくなっていた。死体との対面だったの」
「それは……酷な話だな」
「正直なところ、今でも心の整理がつかない。あの日のことは、何もかもが悪い夢のようで。帝国も、あなたたちも憎むにはあまりにも巨大すぎて……。だけど」
そこで、シャハラの声は急に熱を帯びた。
「ヴァイエル……あの隻眼の将軍だけは許せない」
「あいつが? お前のところに来たのか?」
カムランが意外そうに目を見張った。
「知り合いなの?」
「いや」
カムランはかぶりを振った。
「遠目に見たことがあるだけだ」
「あの男が師匠を殺した。私の目の前で。師匠は私を庇おうとしただけなのに……!」
シャハラの瞳に薄い膜が浮かぶ。
涙があふれそうになるのを、彼女は下唇を強く噛んで必死にこらえた。
「ヴァイエルは憎い。どんな手を使ってでも、師匠の仇を取りたい」
シャハラは震える声ではっきりと言った。
「そうか」
カムランは、眉間に深い皺を刻み、憂鬱そうに言った。
「ヴァイエルは手強いぞ。宮廷を牛耳る大宰相メリクの側近にして、もっとも凶暴な猟犬だからな」
「そうなんだ」シャハラは乱暴に涙を拭った。
「現在、宮廷において私は第一皇子アルマン派と見なされている。実際、私も兄の庇護下にある。兄と敵対する派閥は幾つもあるが、大宰相メリクはどの皇子にも肩入れをしていない。いわば、独立した『大宰相派』を形成している。メリクが誰に味方をするかで、宮廷内の勢力図は大きく変わるだろう」
「つまり、大宰相とヴァイエルはあなたの敵にも味方にもなるってこと?」
「ああ……。お前の力になってやりたいが、現状はなんともいえない。とりあえずは第二皇子ザイード派がもっとも強力であり、直接的な障壁となるだろうが」
カムランの唇に、冷ややかな自嘲が浮かぶ。
「私にも人並みの功名心はあるが……己の器はわきまえているつもりだ。まずは兄アルマンの力になりたい。兄を支援して王座へ押し上げる盤面を操りたいのだ」
「お兄さんが好きなのね」
少し羨ましそうにシャハラは言った。
キアンを失った今、自分は天涯孤独の身の上となってしまった。帝国に拉致されたとしても、キアンが生きて傍にいてくれたらどんなに心が慰められただろう。
「ああ」とカムランは照れくさそうに認めた。
「兄がいなければ、私はこの世に生まれてくることができなかった。恩人なんだ」
カムランは、胸の内で苦い吐息を漏らす。
本当は、軍属となって兄の隣に立つ参謀――軍師になりたかった。
だが軍師たる者は、常に主将と共に過酷な戦場に立ち、泥水を啜り、一兵卒と同じものを食らわねばならない。
己の体質では三日と持たないだろうし、皇子だからと軍規を捻じ曲げれば兵士の士気に関わる。
ならば自分にできることをしよう。宮廷で情報を集め、後方支援に尽力するのが賢明だろうと。
「今、私に言えることがあるとするなら『決して早まるな』ということだけだ。馬鹿な真似をしてはいけない。もし大宰相が敵に回れば、いずれはヴァイエルとも死闘を繰り広げることになる。兄や私がヴァイエルを成敗する日が来ればお前の望みもかなう。だから今は……雌伏の時だ」
「うん……」
手探りながらも、カムランは自分を慰めようとしてくれている。シャハラは彼の思いを敏感に感じとると、思い切ったように強く頷いた。




