見守る男
「――カウスを養子に?」
ノルエナの兄、ジルオムは目をまるくし、ひさしぶりに訪ねてきた妹をみつめた。
「はい。もちろん本人の意思も確認してからのことですが」
兄の困惑をよそに、ノルエナはあっさりと頷く。
(たしかに養子の噂はあったが、まさか本当だとは)
ジルオムはかるい頭痛をおぼえ、おもわず額に指をそえた。
「ライヴァン殿もご承知なのか?」
「まだご了承はいただけておりませんが、あまりのんびりもしていられませんでしょう。ライヴァンさまがご不在のいま、わたくしの一存で決められることではありませんが、どちらにせよお話だけでもおにいさまのお耳にいれておこうとおもいましたの」
ますます頭痛が増した気がし、ジルオムは目をとじた。
*
ライヴァンとノルエナの仲については妹つきの侍女たちより報告があがっていた。
客観的なぶん、おそらくは当人よりも事の全体像を把握しているであろう。
新婚当初、ライヴァンの有名な悪癖がまったくおさまる気配のないことについて、ノルエナ本人にも勝り憤っていたのはむしろジルオムのほうである。
(妹になんの不満があるというのか。あまりにも思いやりのない仕打ちではないか。――)
何度、ライヴァンに直接問いただそうとおもったか知れない。そのたびに「我慢なさっているノルエナさまのお気持を無下にしてはいけません」と家令にたしなめられていた。
ライヴァンの立場をすこしでも悪くするような醜聞は避けたい、という妹の必死さは、痛いほどよくわかる。
当時、国内情勢はあやうく、革命により蹴落とされた者どもは新政権転覆の機会を虎視眈々とねらっていた。万が一にも足もとを掬われるわけにはゆかなかったのである。
兄の情としては、むろん、ライヴァンを殴ってやりたかった。
年のはなれた妹をだれよりもかわいがってきたジルオムである。ライヴァンであれば妹に生活の不自由はさせず、不誠実なまねもすまい。そう信じたからこそ安心してノルエナを嫁がせたのだ。
(いずれノルエナは私のもとに連れもどす)
一時はそこまで決意したジルオムを翻意せしめたのは、あるときから省の内外でささやかれはじめたライヴァンの変貌のためであった。
――あのライヴァン殿が娼館通いをやめた。どうやらよほどの愛妻家に転身したらしい。
にわかには信じがたい話であったが、真偽をたしかめようとした矢先、当のライヴァンから白状があった。
いわく、
――ジルオム殿は私のいままでの態度、ノルエナへの誠意のない仕打ちをご存知のことと思います。それについてはなにも言いわけができず、おのれの愚かさを詫びるばかりです。
現状、たがいに離婚の意向はありません。この点に関してはなにぶん内政の事情もありますが、このような私をいまだに信頼してくれている妻のおかげでもあります。許されるのであれば生涯をかけて償いたい。せめてこの信頼に応えることしかできませんが、よろこんでそうするつもりです。――
(なにをいまさら)
とおもわなくもないが、離婚はしないという結論で両者が一致している以上、世間の風あたりからノルエナを守る役目はライヴァンにしか果たせないのである。
その後のライヴァンの動向をしばらく注視したのち、どうやら今度こそ嘘いつわりはないようだと一応の合点を得たジルオムは、不本意ながら口をはさまないことにした。
*
あたらしい噂がでまわったのは、ライヴァンを筆頭とする使節団が出国するすこし前のことである。
――ライヴァン殿の奥方は養子をとりたがっているそうだ。
――もしや奥方は子を産めぬ体なのではないか。
もっともこの根も葉もない噂は、ジルオムが怒り狂うまえに、とある社交場での会話をもって収束した。
「近ごろ私の妻に関して根拠のない噂があるようですが」
いままでにも数多くの噂があれど、ライヴァン自らが直接言及することははじめてであったろう。それだけに周囲は興味津々で聞き耳をたてた。
「妻にとって不名誉なもので、私もとうてい看過できそうにありません。――もちろん、噂はしょせん噂。みなさんはよもや信じていらっしゃらないとおもいますが」
「ええ、そうでしょうとも」
このときまっさきに同意したのが社交界にそれなりの影響力をもつ婦人であったことも大きかった。
どこまでがライヴァンの計算によるものかは定かでないが、すくなくとも以後、この件は意図的に人々の口から遠ざけられた。
――それを、ノルエナ本人が兄に対してふたたび蒸しかえしてきたのである。
この夫婦の関係はいったいどうなっているのだと混乱する気持をおさえ、ジルオムはたずねた。
「なぜ養子なのだ? まだ結婚して日も浅いだろう。なにしろ私にとっては唐突な話で」
「……」
ノルエナが押しだまる。めずらしい姿であった。
すこしの間をおき、
「わたくし、子を産めないようなのです。ですから仕方がありませんの」
妹の精一杯の嘘を兄は見抜いていた。
(言いたくないのだな)
ジルオムはあらためてライヴァンに腹をたてた。
なぜ妹がこのような嘘をつかなければならないのか。
(みろ、ライヴァン殿。あなたの過去の軽率さが、いまもなおこれほど残酷なせりふを妹に言わせしめるのだ)
「ノルエナ、よく聞きなさい」
(だが、兄にまで嘘をついてでも、ライヴァン殿のことを守りたいらしい。……)
ノルエナの決心がそうである以上、ジルオムにできることは少ない。――そうだとしても、言わずにはいられなかった。
「ライヴァン殿とのあいだに、おまえが無理をしてまで子をもつ必要はない。養子をとることもだ」
おもいもよらぬことを言われた、という顔で、ノルエナは兄を見あげた。
「ライヴァン殿が帰国されてからゆっくりふたりで話しあうといい。それにしてもまだ半年以上はある。養子とは一生のことだ、急いで決めてはみなが不幸になるかもしれない」
「おにいさま、――ですがわたくしは」
「カウスはまだ幼い。もうすこし母親とともに過ごさせてやりたいのだ。これは私のわがままだが」
ノルエナははっとし、恥じいるようにうつむいた。
「おにいさまのおっしゃる通りです。申しわけありません」
「謝ることではないだろう」
「……いいえ。わたくしはじぶんのことしか考えておりませんでした」
あの夜。
夫婦の関係が決定的にかわったあのとき、ノルエナがもちだした養子の話は本気であった。
もはやノルエナはライヴァンと夜をともにする気はなく、跡継ぎをということになれば兄の家から養子をとることがもっとも現実的である。
そうなれば時期はなるべく早いほうがよいというのがノルエナの意見であったが、何度進言してもライヴァンが受けいれることはなかった。
――使節団を率いてライヴァンが旅立ってから半年あまりが経つ。
ひとりで屋敷にいる時間が増えると、それに比例してどうも必要以上に思いつめてしまうことがたびたびあるようだった。
他人の気配を色濃くただよわせる夫。
いくら忘れようとしても簡単に記憶から追いだせるものではなかった。あのみじめな気持を二度とかかえたくない、というのが、ノルエナのかたくなさの根底にうずまいている。
(わたくしたちはもはや同志なのだ。――)
繰りかえしおのれに言いきかせ、ノルエナはやっとの思いで矜持をたもっていた。
しかし、
(養子をとりたがっているのは、ライヴァンさまのためでも家のためでもなく、わたくし自身のくだらぬ自尊心のためなのかもしれない)
その浅ましさを、兄は見抜いたのだろうか。
ノルエナは羞恥に身をかたくしながら、
「ライヴァンさまが帰国なさってから、あらためて相談いたします。――重ねがさね勝手なお願いですが、このお話はわすれていただけないでしょうか」
一方のジルオムもあせっていた。
(しまった。私が追いつめてどうする)
むかしから、おどろくほど行動力のある妹であった。それは聡明な機敏さでもあったが、同時に思いこみの激しさでもある。
「いや、勘ちがいしてくれるな、なにも反対しているわけではないのだ。おまえに怒っているわけでもない。カウスも叔母のことをとても好いているし、伯爵家の三男として過ごすよりは、おまえたちのもとに行くほうがあの子の将来にもよいかもしれないから」
口下手なおのれがうらめしい。
「だが、そうだな、いまは一度わすれておこう。ところで最近ライヴァン殿から便りはあったかい」
あからさまな転換であったが、ノルエナもほっとしたような表情をうかべたところをみるに、さほど悪い選択肢ではなかったのであろう。
ややぎこちない空気のなか、
「先日は貝細工が同封されておりました。わたくしが海をみたことがないと申しあげたために、気をつかってくださったのでしょう」
「北側の国々は、わが国とくらべて海岸線が長いのだったな」
「衣服や食生活もずいぶんとちがうようです。いろいろと教えてくださるのでとてもおもしろいわ」
(どうやらいまは、ライヴァン殿とうまくやれているようだ)
現実の関係はジルオムの推察とはちがうことなどつゆ知らず、兄はおおいに納得した。
第一、ノルエナが不幸そうにはみえない。
「それに、わたくしの相談にもとても丁寧に応じてくださいます。以前、女子教育についてのお話をしたでしょう? おぼえていらっしゃる?」
「もちろんだとも。順調のようだね」
「ライヴァンさまのおかげなのです。なにからなにまで、本当によくしていただいて」
「私にもできることがあればいつでも言いなさい」
「ありがとうございます。心強いことです。――手助けといえば、セビウルさまも親身に気にかけてくださるの。アテウ家の方なのですが、おにいさまはお会いしたことがおありかしら」
ノルエナの死角で、ジルオムの指先がわずかにうごいた。
養子の話でつい言いだしそびれていたが、ちょうど良い。
「――そのことなのだが」
なにかをさぐるような目つきで、
「最近セビウル殿がよく訪ねてこられるそうだな」
「なにかとご協力くださいますわ」
ジルオムはぎこちない笑みを見せた。
「その、あくまで仮定の話だが。くだらない質問だろうが、妙な話題にでもなれば困るだろうと兄としては心配なのだ。つまりだ、可能性としてあり得るのかな……たとえば、おまえがセビウル殿のことを好く、というようことは」
「えっ? ――」
おもわず兄を凝視する。
聞きまちがいさえ疑うほど、予想だにしない問いであった。
「まさか。セビウルさまとはそのような関係ではありません」
「そ、そうか」
なにしろ、セビウルの懸想については、ジルオムのもとにもあわただしい一報が入っている。
ノルエナが流されることはあるまいとおもいつつ、気が気ではなかった。
が、この様子をみるかぎりは杞憂であろう。
あるいは心のどこかで、この件であまり妹をつつかぬほうがよい、と無意識に警鐘が鳴ったのかもしれない。
「安心したよ。だが、今後もセビウル殿とはふたりきりにならぬように。本来であればお会いする頻度も減らしたほうがいいのはわかるな? おまえはライヴァン殿の奥方なのだから」
この言葉は、おそらくジルオムがおもった以上の強さでノルエナにひびいた。
*
兄とわかれ帰宅する馬車のなかで、ノルエナは考えつづけている。
(セビウルさまとはあまり会わぬほうがいい。……当然だわ。世間では、ノルエナはライヴァンさまの妻なのだもの。だからこそわたくしは離婚という道をえらべない)
同志になってからというもの、ライヴァンが自分に構ってくれるようになった――というのがノルエナの認識であった。
ノルエナの取りくみに関連性のありそうなものについては助言だけでなく、実際に人の紹介までしてくれる。それだけではない。ささいな意見も聞いてくれ、まれに意見を求められることもある。
皮肉ではあったが、どこかでよろこんでいる自分もいた。
(わたくしは本当の意味での妻にはなれなかった。それでも同志としてならば、こうしてすこしは必要としていただける)
しかし実情はどうあれ、対外的には円満な夫婦の仮面をかぶらなければならない。
(女の身は不便ね。わたくしも男であればどんなによかったか)
セビウルと会う回数は、たしかに減らしたほうがよいだろう。
(残念だわ。セビウルさまとのお話はたのしいのに)
馬車の揺れに身をまかせ、ノルエナは目をとじた。
このとき、――残念だ、という気持だけではなくべつの感情もふと胸中をかすめたが、ノルエナは気にもとめなかった。
もっとも気がついたところで茨の道である。
いま成そうとしている事業や理想にノルエナは生涯をかけるつもりでいた。それこそが、おのれ自身で選びとった幸福でもあった。