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潮を読む灯台守は、海とあなたの未来を選ぶ  作者: 銀細工ナギ


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2/20

臨時調査員の条件

 セドが持ち込んだ書類を広げるため、二人は灯台管理所の隅にある古い作業机へ戻った。バルドは何か言いたげにしていたが、王都の監査官を前にして、さすがに追い出すことはできなかった。


「まず、今朝の船がどの水路を通ったか確認しましょう」


 セドは濡れた航路図を机に置いた。紙の端には、船底が岩に触れた地点が赤いインクで印されている。公式の図では、そこは緩やかな西向きの流れがある安全な道だった。


 リネアは自分の記録帳を開き、三年前の同じ季節の頁をめくった。


「この時期、南東風が夜明け前に入ると、岬の外側から押された水が湾の底を回ります。満潮の前後一時間だけ、表面の流れと底の流れが逆になる」


「公式の図には、その記述がありません」


「測った人がいないからです」


「測った人はいる。あなたが」


 セドの言葉に、リネアは顔を上げた。記録帳の余白には、細い字で何度も書き直した跡がある。けれど、その一冊に記された名前は彼女自身のものだけだった。


「記録が正しいとしても、船を動かすには港務局の承認が要ります。私には権限がありません」


「では、権限を作りましょう」


 セドは鞄から一枚の書式を取り出した。海運組合の印章が押されている。


「航路監査官には、事故調査のため臨時の調査員を任命する権限があります。ただし、調査員が作成した航路案は、組合の正式な承認を受けるまで試験航路として扱われる」


「つまり、失敗すれば私だけが責任を負う」


「そうは書かれていません。調査員と監査官が共同で責任を負います」


「あなたは、私の観測を信じるのですか」


 セドはすぐには答えなかった。窓の外では、先ほどの貨物船が曳航され、岸壁の修理場へ運ばれている。船底から流れ出た黒い水が、薄い筋になって海へ消えていた。


「信じるかどうかを決めるために、調査に来ました。ですが、今朝の記録については、あなたの数字が船長の証言と一致している。少なくとも、私が持つ航路図より現実に近い」


 リネアは書式へ視線を落とした。


「条件があります」


 バルドが鼻で笑った。


「臨時雇いが条件を出すのか」


「出します」


 リネアは彼を見ずに言った。


「第一に、私の観測記録を誰かの成果として提出しないこと。署名は私とセドさんの連名にする。第二に、報酬は成功した場合だけ支払う成功報酬ではなく、調査期間中の正式な日当とします。天候で航路が失敗しても、観測した仕事が消えるわけではありません」


 セドの眉がわずかに上がった。


「ほかには」


「第三に、調査で得た記録を私が保管すること。写しは組合へ渡しますが、原本を取り上げない。第四に、私を灯台から追い出すかどうかは、事故調査が終わるまで保留にすること」


「欲深い女だな」


 バルドが吐き捨てた。


 リネアはようやく彼を見た。


「三年分の記録を、ただで使われてきました。これ以上、私の仕事を消されないための条件です」


 静かな声だった。怒鳴るよりも、はっきりと響いた。


 セドは書式の裏に条件を書き留めた。羽根ペンが紙の上を滑る音だけが、作業場に残る。


「第四の条件は、私の権限で認められます。第三も、原本の保管者を調査員本人と明記しましょう」


「日当は?」


「海運組合の規定にある額を支払います」


「灯台守の臨時雇いの日当ではなく、専門調査員の額で」


 今度こそ、セドは驚いた顔をした。


「あなたは、自分を専門家だと思っているのですね」


「三年分の潮流を記録し、再現できる条件まで整理しています。そうでないなら、あなたはなぜ私を雇うのですか」


 セドはしばらく彼女を見つめ、それから書式の空欄に数字を書き込んだ。


「専門調査員の額で」


 リネアはその数字を確認した。予想していたより少し高かった。しかし、金額より重要なのは、職名が記されることだった。


 臨時調査員、リネア・フェル。


 彼女の名前の横に、セドの署名が添えられる。


「期限は?」


「まず三十日。湾内の潮流を再測定し、船が安全に通れる時間と水路を示します」


「三十日で足りますか」


「足りないかもしれません。だから、期限を過ぎたときに延長を協議する条項も入れてください」


 セドは口元だけで笑った。


「契約に詳しいのですね」


「何度も、書かれていない条件で損をしましたから」


 その言葉に、セドの表情から笑みが消えた。


 二人は昼までかけて、湾の略図を作った。リネアは自分の記録から、潮の変わる地点を青い糸で結び、セドは船の大きさと喫水ごとに通過可能な時刻を書き込んだ。古い航路図では一本の線だった湾が、時間ごとに形を変える生き物のように机の上へ現れていく。


「この水路を使えば、今日の貨物船も浅瀬を避けられました」


 セドが指したのは、岬の内側を大きく回る細い道だった。


「ただし、南東風が強まると入口で横波を受けます。小型船なら通れますが、積み荷の多い船には危険です」


「では、船の種類ごとに航路を分ける」


「それが安全です」


 リネアは青い糸の上に、赤い糸を重ねた。二本の線は途中で交わり、潮の変化によって離れていく。


 夕方、セドは完成した案を港務局へ提出するため、書類をまとめた。バルドは最後まで黙っていたが、彼の視線は机の上の地図から離れなかった。


「明朝、試験航路を使う船を募ります」


 セドが言った。


「船長たちは、名のない女の地図など信用しません」


「あなたの名を載せます」


「名だけでは足りません。観測条件と計算方法も添えてください。誰かが確かめられるように」


「分かりました」


 セドは新しい紙を取り出した。


「明日から、あなたは臨時調査員です」


 リネアは署名の入った書類を受け取った。紙は薄く、風に飛ばされそうだった。それでも、これまで誰かの机の隅で消えていった言葉とは違う重さがあった。


 灯台の外では、夜の潮が堤防を洗っている。


「セドさん」


「何ですか」


「この調査が終わっても、私の記録を返してください」


「最初から、あなたのものです」


「それを、紙に書いておいてください」


 セドは一瞬目を丸くし、やがて契約書の余白へ一行を書き加えた。


 原本は、リネア・フェルに帰属する。


 彼女はその文を指でなぞった。


「これで、始められます」


 二人の間に置かれた地図の上で、青い糸がかすかに揺れた。海の底では、明日の潮がすでに動き始めていた。

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