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潮を読む灯台守は、海とあなたの未来を選ぶ  作者: 銀細工ナギ


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奪われた潮見表

 海辺の町グレイヴァでは、朝の鐘より先に、潮の音が一日の始まりを告げる。


 リネアはまだ薄暗い灯台の踊り場で、窓枠に取りつけた細い銅線の震えを見つめていた。風が南東へ回った。昨夜まで北から吹いていた風が変われば、湾の奥へ入り込む潮の速さも変わる。海面の高さだけを見ていては、船の底を浅瀬にさらう。


 彼女は膝の上の記録帳に、時刻と風向きと波の間隔を書き込んだ。月の満ち欠け、沖を通った貨物船の喫水、岬の岩に砕ける波の音まで、見落とさずに記す。三年かけて集めた数字は、ただの潮位表ではなかった。この湾が、いつ、どこで牙をむくのかを示す地図だった。


 最後の欄に線を引いたとき、背後から靴音がした。


「また朝から遊んでいるのか、リネア」


 灯台管理所の主任、バルドだった。彼は濡れた外套を脱ぎながら、彼女の記録帳を見下ろした。


「遊びではありません。南東風なら、昼の満潮で東の浅瀬に逆流が起きます。今日の入港船には、旧航路を使わないよう――」


「入港船の案内は私の仕事だ」


 バルドは彼女の言葉を遮り、机の上に置かれた革表紙の帳面を取り上げた。リネアが夜ごと書き写してきた潮見表だった。


「これを港務局へ提出する。臨時雇いの女が作ったものだとは言わない。私が整理した資料としてな」


「整理したのは私です」


「名前が載れば船が動くのか? 臨時雇いの観測など、評議会が信用すると思うか」


 言い返せなかった。信用されるかどうかを決める席に、リネアは一度も呼ばれたことがない。仕事だけを渡され、結果だけを奪われてきた。


 そのとき、港の方から警鐘が鳴った。


 一度、二度、三度。入港の合図ではない。危険を知らせる鐘だった。


 リネアは窓へ駆け寄った。湾口の向こうで、一隻の小型貨物船が大きく傾いている。帆はたたまれているのに、船体だけが横へ滑っていた。東の浅瀬へ流されている。


「だから言ったのに!」


 彼女は階段を駆け下りた。バルドの制止を背に、灯台守の作業場から信号旗をつかむ。港では人々が岸壁へ集まり、船へ向かって叫んでいた。しかし船から見える位置にいる者は、誰も潮の流れを読めていない。


 リネアは灯台の下にある旗柱へ走り、赤白の旗を東の浅瀬へ向けて掲げた。続けて、沖へ回れという合図を送る。船は一度、彼女の旗を見たように船首を振った。だが遅かった。水面の下で逆流がぶつかり、船底が岩に触れた。


 鈍い音が湾に響く。


 幸い、船は完全には乗り上げなかった。港の小舟が綱を投げ、しばらくして貨物船は浅瀬から引き離された。乗組員に大きな怪我はなかったが、船底の板が裂け、積み荷の一部が海へ落ちた。


 岸壁に戻ったリネアを、バルドが待ち構えていた。


「勝手に信号を出したな」


「船を救うためです。旧航路を案内したのは主任でしょう」


「私が案内した航路は、港務局の正式な図に基づいている。事故の責任を、根拠のない観測で逃れるつもりか」


「根拠はあります。今朝の風向きと潮の高さを見れば――」


「黙れ!」


 バルドの声が、濡れた石壁に跳ね返った。


「臨時雇いが港の名を汚した責任を取れ。今日限りで灯台を出てもらう」


 リネアは拳を握った。ここを出れば、記録も観測も続けられない。だが残れば、彼女の潮見表はまた誰かの名で提出される。


 その迷いを断つように、岸壁の端から見知らぬ青年が歩いてきた。濃紺の外套に、海運組合の銀章をつけている。片手には濡れた書類の束があった。


「その解雇は、事故の調査が終わってからにしていただきたい」


 青年はバルドへ書類を差し出した。


「セド・アレン。王都から派遣された航路監査官です。今朝の船の船長から、出航時の記録を預かりました」


 バルドの顔色が変わった。


 セドは一枚の紙をリネアにも見えるように広げた。そこには、船が旧航路へ入った時刻と、船員が感じた流れの向きが記されていた。


「船長は、案内図では西へ流れるはずの潮が、東から押してきたと証言しています。偶然の横流れではありません。湾全体の流れが反転していた」


 リネアは紙の数字を見つめた。彼女の記録と、ほとんど一致している。


「それを説明できる人を探していました」


 セドの視線が、彼女の手元の濡れた記録帳へ移った。


「あなたが、今朝の潮を予測したのですね」


「予測ではありません。三年分の記録から、起きる条件を知っていただけです」


「なら、教えてください。誰が航路図を間違えたのか。なぜ港は危険な道を船に使わせているのか」


 リネアはバルドを見た。彼の腕には、革表紙の帳面が抱えられている。彼女の名前を消した潮見表だ。


 灯台の向こうで、救助された船の鐘が鳴った。海は静かになりつつあったが、その静けさは嵐の前にも似ていた。


「灯台を出ろと言われました」


「出るのですか」


「いいえ」


 リネアは濡れた髪を耳へかけ、記録帳を胸に抱いた。


「調査をします。私の潮見表が誰のものか、港中に分からせるまで」


 セドは短くうなずいた。


「では、共同で始めましょう。海は、嘘をついた人間より長く記憶します」


 その日、灯台の鐘はいつもより早く鳴った。誰にも見えない潮の流れが、古い港の底で、ゆっくりと向きを変え始めていた。

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