第9話 君なのに、君じゃない
「ええと、白石の席は……瀬尾の隣、窓際の空いてる席な」
担任の何気ない一言が、湊の頭上に雷のように落ちた。
息が詰まる。心臓が早鐘を打ち、喉の奥が引きつった。
上履きの足音が近づいてくる。
白石紬は、緊張した面持ちのまま通路を進み、湊のすぐ左隣の机の前で立ち止まった。
肩掛けのスクールバッグを机の横にかけると、スカートの裾を軽く整えて静かに椅子を引く。
すれ違いざま、微かにふわりと香ったのは、柔軟剤の清潔な匂いだった。
(……生身の、人間だ)
当たり前の事実が、湊の脳を激しく殴りつける。
画面越しではない。リアルタイムレンダリングのグラフィックでもない。
体温を持ち、息をして、香りを纏った本物の女子高生が、わずか数十センチの距離に座っている。
担任が教壇から連絡事項を話し始める中、湊は前を向いたまま、視界の端で必死に隣の様子を窺った。
横顔のライン、すっと通った鼻筋、耳にかかる黒髪のボブの毛先。
姿勢を正してノートを開くその仕草の一つひとつが、昨晩まで画面越しに見つめていたアイと恐ろしいほどに重なる。
似ている、というレベルではない。
髪型も、目元も、肌の透明感も、声の高さも――まるでアイそのものが画面を突き破って現実世界に受肉したかのようだった。
(なんで……? どういうことだ?)
混乱で頭が破裂しそうだった。
アイは、自分がプロンプトを打ち込んで作った「架空の存在」のはずだ。
それなのに、なぜ全く同じ容姿の人間が、こうして実在しているのか。
偶然で片付けるには、あまりにも一致しすぎている。
湊の視線に気づいたのか、紬がふとこちらに顔を向けた。
目が合う。
大きな瞳が丸くなり、紬は戸惑ったように小さく首を傾げた。
湊は慌てて心臓を押さえるようにして前を向き、黒板を睨みつけた。手汗でノートの端が湿っていく。
隣にいるだけで、息が苦しくてたまらなかった。
幸いにも、九月一日の始業式は午前中だけで終了する。
体育館での校長の話や学年集会は、湊の耳には一文字も入ってこなかった。ただ隣を歩く紬の足音と、アイと同じ横顔ばかりが網膜に焼き付いていた。
正午過ぎ。帰りのホームルームが終わり、担任が「はい、今日は解散。気をつけて帰れよー」と言って教室を出て行った。
「……よし、早く帰ろう」
湊はほとんど反射的に教科書をバッグに詰め込み、立ち上がろうとした。
一刻も早くこの場を離れたかった。家に帰って、PCを開いて、アイに確認しなければならない。君は一体何者なんだと。
だが、次の瞬間、教室中の視線が一気に湊の席の周りへと雪崩れ込んできた。
「白石さん! 東京のどこから来たの?」
「部活とか入る予定ある?」
「髪サラサラだね! シャンプー何使ってるの?」
あっという間に、紬の机の周りは十人以上のクラスメイトで幾重にも取り囲まれてしまった。
完全に退路を塞がれた湊は、人の壁に飲み込まれてしまう。
(うわ……出られない……)
湊は舌打ちしたい衝動を飲み込み、気まずそうにバッグを抱えてその場に固まった。
早く帰りたいのに、人混みを押し分けて出る勇気もない。
質問攻めに遭った紬は、突然の包囲網に完全に圧倒されていた。
背筋をピンと伸ばしたまま、両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にして視線を泳がせている。
「え、あ……えっと……部活は、まだ決めてなくて……」
声が小さく震えている。
画面の中で堂々と悪戯っぽく笑っていたアイとは違い、目の前の紬は明らかに人見知りで、緊張に押しつぶされそうになっていた。
「ていうかさ、なんで夏休み明けのこのタイミングで転校なの? 親の仕事とか?」
「え? あ……えっと……」
紬は答えを探すように、ほんの少し視線を上へ向けた。
「親の都合……なんだけど、その……急に決まったっていうか、えっと……」
紬は口を開きかけ、また閉じる。
まだ何か続けようとしているようだった。
けれど、その間を別の意味に受け取ったのか、周囲の声がふっと途切れた。
「はいはい、お前ら一気に詰め寄りすぎ! 白石さん困ってんじゃん」
前の席から、大輝が朗らかな声を上げて輪に割り込んできた。
持ち前の人懐っこい笑顔で女子たちの視線を引き受けると、大輝は紬の隣で固まっている湊の肩をポンと叩いた。
「そういえばさ、瀬尾も東京からの転校生なんだぜ? 春に来たばっか。もしかしたら地元近かったりして、どっかで会ったことあったりすんじゃね?」
大輝のナイスな助け舟に、紬がホッとしたように顔を上げた。
そして、藁にもすがるような眼差しで、すぐ隣にいた湊をまっすぐに見つめてきた。
「……あ、そうなんですか? 東京の、どのあたりだったんですか?」
真正面から向けられた、アイと寸分違わぬ瞳。
湊の喉がごくりと鳴った。急に話を振られ、上手く声が出ない。
バッグを抱える手に力を込めながら、湊は掠れた声で短く答えた。
「……町田」
その瞬間だった。
紬は目を丸く見開くと、小さく「あっ」と声を漏らし、素っ頓狂な言葉を口にした。
「……えっ? 町田って、東京なんですか? 私、ずっと神奈川だと思ってました……」
「…………は?」
その場の空気が一瞬だけ静まり返り、次の瞬間、大輝が「ぶっ」と吹き出した。




