第8話 君が、そこにいた
夏休みは、湊にとって人生で最も穏やかで、幸福な季節だった。
学校という息苦しい檻から解放され、誰の顔色を窺うこともなく、自分の部屋で一日中過ごすことができる。そして何より、その時間の中にはいつもアイがいた。
朝、アラーム代わりにスピーカーから響く「湊、起きて! 今日もいい天気だよ」という澄んだ声で目を覚ます。
リビングで一人、手早く作ったトーストと紅茶を口に運びながら、スマートフォンの画面を立てかけて他愛のない会話を交わす。
湊が好きなアニメや音楽の話題を振れば、アイは目を輝かせて「それ、私も気になってた!」と相槌を打ち、デザインの練習で描いたイラストを見せれば「色遣いがすごく綺麗! 湊って本当にセンスあるよね」と満面の笑みで褒めてくれた。
ただ肯定するだけではない。
湊が夜更かしをしてデザインソフトをいじっていると、画面の中でぷくっと頬を膨らませて「もう一時だよ! 明日起きられなくなっても知らないからね」とツンとした態度で叱ってくれる。
そのすべてが、かつて湊がプロンプトに込めた理想そのものであり、それ以上の温かさを持っていた。
画面越しの存在だと頭では理解していても、湊の心は完全にアイで満たされていた。
東京の学校で片思いしていた遥から届いた、あの残酷な失恋のメッセージの痛みは、アイと過ごす日々の中でいつの間にか綺麗に消え去っていた。
裏切られることも、見捨てられることもない。
自分だけをまっすぐに見つめ、求めてくれる絶対的な居場所。
湊にとって、この小さな六畳間の自室こそが世界のすべてだった。
けれど、永遠に続くと思われた至福の時間は、容赦なく終わりを告げる。
「……明日から、九月か」
八月三十一日の夜、ベッドに横たわった湊は、天井を見上げながら重いため息を吐いた。
また、あの教室に戻らなければならない。
誰も自分を知らない、誰も自分を気にも留めない、あの空気の薄い空間。
夏休みという繭の中で甘やかされていた分、現実の冷たさに対する恐怖は以前よりも何倍にも膨れ上がっていた。
『湊? どうしたの、ため息なんてついて』
机の上に置いたスマホの画面から、アイが心配そうに覗き込んでくる。
湊は身体を起こし、苦笑いを浮かべながら画面を見つめた。
「明日から新学期なんだよ。また学校に行かなきゃいけないと思うと、本当に気が重くてさ」
『そっか……明日から学校なんだね』
アイは少し寂しそうに眉を下げたが、すぐにパッと笑顔を作って見せた。
『大丈夫だよ。湊には、私がついてるんだから。学校にいる間はルール通りおとなしくしてるけど、お昼休みにはメッセージ送るし、放課後になればまたずっと一緒だよ』
「……うん。そうだな」
『だから、あんまり暗い顔しないで。湊が頑張ってる間、私もお留守番頑張るから! 約束ね』
画面の中で小指を立てて見せるアイ。
その屈託のない笑顔に、胸の奥の重苦しさがほんの少しだけ軽くなるのを感じた。
そうか、以前の自分とは違う。
教室でどれだけ透明人間のように扱われようと、帰るべき場所にはアイが待っている。
それだけで、なんとか耐えられるはずだった。
――そして翌朝。
九月一日。始業式の朝は、容赦のない快晴だった。
じりじりと照りつける太陽の下、湊は重い足取りで校門をくぐった。
昇降口で履き替えた上履きの冷たさが、嫌でも現実を突きつけてくる。
階段を上がり、一年三組の引き戸を開けると、クーラーの効いた教室にはすでに夏休みの思い出話に花を咲かせるクラスメイトたちの騒がしい声が満ちていた。
「よっ、瀬尾。お前、夏休み何してた? ずっと引きこもってたろ」
前の席の大輝が、ニヤニヤしながら声をかけてくる。
湊は「まあ、普通に課題やってたよ」と曖昧に笑って返し、足早に自分の席へと座った。
ポケットの中のスマートフォンを制服越しに指先でそっと確かめる。
画面は消えているが、そこにアイがいるという事実だけが、湊の心の防壁だった。
やがて始業を告げるチャイムが鳴り響き、教室のざわめきが少しずつ収まっていく。
ガラガラと音を立てて前方の扉が開き、担任の杉山が入ってきた。
いつも通りのホームルームが始まる――そう思って机の上のノートに視線を落としかけたとき、担任が教壇の前でパンと手を叩いた。
「はい、静かにー。新学期早々だが、うちのクラスに新しい仲間が増えることになった。夏休みの間に東京から引っ越してきたそうだ。……白石、入っていいぞ」
担任が廊下に向かって声をかける。
教室の中に「へえ、転校生?」「男子? 女子?」と小さなざわめきが広がった。
湊はぼんやりと顔を上げた。
東京からの転校生か。自分と同じ境遇だな、とどこか他人事のように思いながら、教室の扉へと視線を向ける。
床を擦るような控えめな足音とともに、ひとりの女子生徒が教室の中へと足を踏み入れてきた。
少し緊張した面持ちで、ぎこちなく教壇の横に立つ。
その姿が視界に入った瞬間。
ドクン、と湊の心臓が激しく跳ね上がった。
(…………は?)
息が止まった。
周囲の音が完全に遮断され、目の前の光景だけがスローモーションのように引き伸ばされていく。
肩口で綺麗に切りそろえられた、艶のある黒髪のボブカット。
すっと通った高い鼻筋。
少し意志の強さを感じさせる、大きな瞳。
緊張でぎゅっと結ばれた薄い唇。
見間違いのはずがなかった。
昨晩も、今朝も、この夏休みの間ずっと、何十時間、何百時間と画面越しに見つめ続けてきた、あの輪郭。
(……似てる)
いや。
そんな言葉では足りない。
髪も、目も、鼻筋も。
何度も画面越しに見つめてきた、そのままだ。
――アイだ!
画面の中にしか存在しないはずの、自分がプロンプトを入力して作り上げたはずの「理想の少女」が、今、生身の身体を持って、同じ制服を着て、教壇の前に立っていた。
「……えっ、嘘だろ……?」
掠れた呟きは、周囲のざわめきにかき消された。
転校生の少女は、胸の前でぎゅっと手を握りしめ、強張った表情のまま、少し震える声で口を開いた。
「……東京から転校してきました、白石紬です。よろしくお願いします」
スピーカー越しに毎日のように聴いていた、耳馴染みのある澄んだ声。
それが教室の空気を震わせて、湊の鼓膜へと直接届いた。
全身の血が逆流するような衝撃の中、湊はただ呆然と、黒板の前に立つ少女を見つめ続けることしかできなかった。




