第38話 メンタル弱くてごめん
午後の調理室は、湯気とパンの香りで満ちていた。
大鍋で次々と茹で上がる卵を冷水に取り、紬ともう一人の女子生徒が手際よく殻を剥いていく。
そこへ、材料棚を確認していた女子生徒が焦った声を上げた。
「……嘘、マヨネーズあと一本しかない! ストックこれだけ?」
「えっ、本当? これじゃ半分しか作れないかも……」
「私、神崎さんに報告してくる!」
女子生徒がエプロンのポケットに手を突っ込み、足早に調理室を駆け出していった。
教室の前で事情を聞いた小春は、手帳の端をギリリと噛んだ。
大輝たちはすでに少し離れたスーパーへ走っている。今から連絡しても間に合わない。
「わかった、近くのコンビニで一本だけ買ってきて! お金はあとで精算するから!」
生徒を送り出したものの、小春は眉間に深いシワを寄せた。
「……あっちの人手が足りないわね。私としたことが、しくじったわ。瀬尾くんに買い出しに行ってもらえばよかった」
レジ横で伝票の計算をしていた湊が顔を上げる。
小春はため息を飲み込み、手帳のペン先で調理室の方向を指した。
「瀬尾くん、悪いけど調理室のヘルプに入って。卵サンド、一刻も早く仕上げなきゃいけないの」
「……わかった」
湊はレジの引き継ぎを隣の男子に頼むと、予備のエプロンを手に取った。
紐を結び直す指先が、ほんの少しだけぎこちなく引っかかる。
エプロンの裾を整え、足早に廊下を渡って調理室の引き戸を開けた。
「手伝いに来たよ」
作業台の前でフォークを動かしていた紬が、顔を上げて目を丸くした。
「あ……瀬尾くん」
「卵潰すの手伝えばいいかな。ボウル、もう一つある?」
「うん、ここにあるよ」
湊が紬の隣に並び、手早く腕まくりをしてボウルを引き寄せる。
残っていた女子生徒が「じゃあ私、パン切っていくね」と少し離れたまな板へ向かった。
並んでボウルを抱える湊と紬。
「殻、綺麗に剥けてるね」
「瀬尾くん、力入れすぎると細かくなりすぎちゃうから……これくらいで」
紬がフォークを添えて、自分のボウルの中身を傾けて見せる。
二人の顔が自然と近づく。触れ合いそうな距離で、紬の髪から微かにシャンプーの香りが揺れた。
「……これくらい?」
「うん、それくらい。……あ、瀬尾くん、頬に何かついてる」
「え、どこ?」
「ここ」
紬が指先を伸ばし、湊の頬を指さす。
湊が小さく息を呑む。紬も自分のしたことにハッとしたように、慌てて手を引っ込めて視線を落とした。
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
パンを切っていた女子生徒が、二人をちらりと見た。
「……私、ちょっと教室戻ってくるね」
「え?」
「神崎さんに進捗報告してくる」
ガラリと戸を開けた瞬間、コンビニから息を切らして戻ってきたもう一人の女子生徒と鉢合わせになった。
「買ってきたよ! ……あれ、どうしたの?」
「……ごめん、私、メンタル弱いから」
「え?」
「じゃ!」
逃げ出した彼女の背中を怪訝そうに見送ると、調理室へ入った。
マヨネーズのボトルを作業台の端にコトンと置き――そこで、二人の様子に気づく。
「……あ」
「?」
「……先にできた分だけ届けてくるね」
「え? じゃあ、お願いします」
調理室に残された湊と紬は、顔を見合わせた。
「……これで少しはもちそうだね」
「うん……私たちも残りを急ごうか」
他愛のない言葉を交わしながら、湊がマヨネーズのキャップを外す。
「これ、どれくらい入れる?」
「えっと……、私が混ぜるから、少しずつ入れてくれる?」
「わかった」
ボウルの縁を二人で支え合うように手を添える。
「もう少し?」
「うん、あとちょっと」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。




