第36話 頑張ったね
教室の引き戸を開けると、教卓で文庫本をめくっていた美羽が顔を上げた。
並んで入ってきた湊と紬の姿を一瞬だけ見つめ、ほんのわずかに目を瞬かせる。
「あ……神崎さんたちは?」
「三年生の教室で、神崎さんのお姉さんに捕まっちゃってさ」
湊が答えると、美羽は「ああ……」と小さく苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、しばらく戻ってこれないね」
「僕たちが留守番してるから、橘さんも他のクラス見てきていいよ」
「ホント? じゃあ、ちょっとだけお言葉に甘えちゃおうかな。ありがとう」
美羽は本を鞄にしまい、足早に廊下へと出て行った。
パタンと扉が閉まり、教室には湊と紬の二人だけが残された。
窓の外からわずかに明かりが差し込んでいる。
並べられたテーブル、琥珀色のランプ、整然と積まれた手書きのメニュー。
教室を見渡しながら、湊はぽつりと呟いた。
「……すごいよ、白石さん」
「え?」
紬が不思議そうに湊を見つめる。
「この企画、最初のプレゼンで白石さんが言ってくれたことから始まったんだ。それからみんなで放課後集まって、買い出しに行って、試作して……ここまでできたんだもの」
「ちがうよ……」
紬は小さく首を横に振った。
手帳を抱える両手にきゅっと力を込め、湊の目をまっすぐに見返す。
「あのとき、私が何も言えなかったのに……瀬尾くんが聞いてくれようとしたからだよ。瀬尾くんがいなかったら、私、きっとこの輪の中にいられなかった」
(それは……僕も同じだ)
湊は柔らかく口元を緩めた。
「そんなことないよ。……明日、頑張ろう」
「うん」
紬が静かに微笑み返す。
その時、中庭の特設ステージからドラムの音とギターのコードが響いてきた。三年生有志のバンド演奏が始まったのだと告げる重低音が、夕暮れに染まりゆく教室の空気を小さく震わせていた。
――自室のベッドに腰掛け、湊はスマートフォンの画面をタップした。
すべての準備が終わったこと、明日がいよいよ本番であること。他クラスの見学で理系の展示を見て女子生徒に引かれてしまった他愛のない出来事などを、短くぽつりぽつりとアイに話した。
画面の中のアイは、相槌を打ちながら静かに湊の話を聞いていた。
話が一通り途切れたあと、アイは画面越しに湊をじっと見つめ、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。
『……白石さん、本当に頑張ったね』
いつもより少しだけ静かな、穏やかな声だった。
思わず頬が緩む。
「……そうだね」
湊は画面の中にある、淡く揺れるアイの瞳をじっと見つめ返した。




