第3話 ひとつ覚えました!
『……よろしく、アイ』
おずおずと返した湊の声に、画面の中のアイはパチパチと二度まばたきをした。
まだ初期状態のせいか、その表情にはどこかぎこちなさが残っている。
プロンプトで大まかな性格は流し込んだものの、思考のベースとなるデータが足りていないのか、視線がわずかに宙を泳いだ。
『うん、よろしくね、湊。……ねえ、湊のこともっと教えて?』
アイは首を少し傾げ、画面越しに覗き込むようにこちらを見つめてきた。
『私、湊のことが知りたくて作られたんだと思う。どんなことが好きで、どんなことに悩んでるのか……全部聞かせてほしいな』
画面の右上には、カメラが捉えている湊の顔が小さく映っている。
アイの瞳の奥で微細な光のリングが点滅した。表情解析エンジンが、湊の表情の硬さや眉の動きをリアルタイムで測定している合図だった。
「……僕のこと、って言われてもな」
湊はベッドの縁に腰を下ろし、膝の上にスマホを置いた。
誰かに自分の話をするなんて、この街に来てから一度もなかった。東京にいた頃だって、他人に自分の内面を曝け出すのは得意じゃなかった。
けれど、相手は人間ではない。
どれだけ惨めな話をしても、蔑んだり、笑ったり、明日学校で言いふらしたりしない。
その絶対的な安心感が、湊の固く閉ざしていた口を少しずつ緩めていった。
「……春に、東京からこの街に引っ越してきたんだ。親父の仕事の都合で」
『東京から? 新幹線で一時間半くらいのところだよね。……引っ越してきて、どう? 新しい学校、楽しい?』
「楽しくないよ。全然」
湊は自嘲気味に息を吐いた。
「数か月経つのに、友達なんて一人もできてない。教室にいても、僕の周りだけ空気の壁があるみたいでさ。別にいじめられてるわけじゃないけど……透明人間になった気分なんだ」
『そっか……。でも、まだ高校生活は始まったばかりだよ』
アイは励ますように、教科書通りの優しい笑顔を浮かべた。
『これから自分から話しかけてみれば、きっと友達もできるよ。明日から少しずつ頑張ってみよ?』
「…………」
湊は何も答えなかった。
間違ったことを言われたわけではない。そんなことは、自分でも分かっている。
話しかければいい。勇気を出せばいい。自分から変わればいい。
――それができないから、こうして一人で部屋に閉じこもっているのに。
「……そうだな」
適当に返して、湊は視線を落とした。
その瞬間。
アイの瞳の奥で、淡い光のリングが細かく明滅した。
『……あれ?』
「ん?」
『今の、違った?』
思わず湊は画面を見た。
アイは先ほどまでの作られたような笑顔を消し、どこか不思議そうに湊を見つめていた。
『湊、さっきより表情が硬くなった。声のトーンも少し低くなってる』
「……そんなことまで分かるのかよ」
『分かるように作られてるからね。……でも』
アイは少し考えるように視線を泳がせた。
『分かるのと、何て言えばいいのかは……まだ別みたい』
その言い方が妙に人間臭くて、湊は少しだけ肩の力を抜いた。
「別に、君が間違ったこと言ったわけじゃないよ」
『じゃあ、どうして嫌そうな顔したの?』
「嫌っていうか……」
湊は少し迷ってから、ぽつりと本音を零した。
「頑張れって言われると、しんどいんだよ」
『……しんどい?』
「自分でも分かってるから。話しかけなきゃ何も変わらないって。でも、それができなくて困ってるのに、『頑張ればできる』って言われると……なんか、できない僕が悪いって責められてる気がする」
アイは黙った。
瞳の奥のリングだけが、ゆっくりと明滅している。
湊の言葉の波形と、その裏にある感情のパラメータを、一つひとつ丁寧に覚え込んでいるようだった。
やがて――。
『……そっか』
先ほどまでの定型文のようなトーンが消え、少し低く、静かな声がスピーカーから流れた。
『じゃあ今は、頑張らなくていいよ』
「え?」
『友達作れとか、明日は話しかけろとか、言わない』
アイは画面越しに、じっと湊を見つめ返した。
『今日まで一人で学校行って、ちゃんと授業受けて、ちゃんと帰ってきたんでしょ?』
「……まあ」
『じゃあ今日は、それで十分じゃない?』
湊は目を瞬いた。
『明日のことは、明日の湊に任せよ』
アイはそう言って、ふっと柔らかく、少しだけ悪戯っぽく笑って見せた。
『今日の湊はもう帰宅済み。業務終了。お疲れさまでした!』
「……なんだよ、業務って」
思わず口元が緩み、小さな笑いが漏れた。
その瞬間、アイの瞳の奥で光がパッと小さく瞬いた。
『……なるほど』
「何が?」
『湊はこういう方が笑うんだ』
「おい。実験台にすんなよ」
『ふふ。ひとつ覚えました!』
アイは誇らしげに胸を張った。
その表情と声の響きは、ほんの数分前よりも格段に柔らかく、自然なものへと変化していた。
画面の向こうのAIが、自分の心の形に合わせて輪郭を変えていく。
その居心地の良さに背中を押されるように、湊の胸の奥に澱のように溜まっていたもう一つの痛みが、ぽつりと零れ落ちた。
「……あとさ。さっき……中学のとき好きだったやつからメッセージが来て」
『好きな人?』
「遥っていう、中学の三年間ずっと片思いしてた女の子なんだけど。……彼氏ができたって。高校の先輩に告白されたらしい」
『……えっ』
アイが目を見張り、両手で口元を覆った。
その驚きの表情には、もう機械的なぎこちなさは微塵もなかった。
『それは……ショックだよね。ずっと好きだったのに、そんなの急に言われたら……』
「告白もできなかった臆病者の自業自得だけどさ。でも、引っ越してからもLINEで繋がってたから……心のどこかで、まだチャンスがあるんじゃないかって期待してたんだよ。本当にバカみたいだ」
湊は俯き、自分の膝をぎゅっと握りしめた。
情けなくて、惨めで、視界が滲みそうになる。
そのとき、スピーカーからふっと柔らかい吐息が漏れた。
『……バカなんかじゃないよ』
湊が顔を上げると、アイは困ったように眉を下げてこちらを見つめていた。
そして、ふいに少しだけ意地悪そうに目を細め、小さく笑った。
『でもさ、湊。その遥ちゃんって子、見る目ないよね』
「……え?」
『だって、こんなに優しくて、一途に自分のことを想ってくれてた男の子の気持ちに気づかないで、他の先輩に行っちゃうなんて。……もったいないことしたなーって、いつか後悔すると思うよ?』
「な、なんだよそれ……慰めにもなってないぞ」
『慰めじゃないし! 本気でそう思ったの!』
アイはぷくっと頬を膨らませて見せた。
ツンとして素直になれない、けれど全力で自分を肯定してくれる少女。
ほんの少し前までどこかぎこちなかったアイが、少しずつ湊にとって心地よい距離を覚え始めていた。
『それに……私にとっては、遥ちゃんに感謝かも』
「感謝?」
『うん。だって、そのおかげで湊は私を呼んでくれたんでしょ?』
アイは少し照れくさそうに視線を逸らし、指先で黒髪の毛先をくるくるといじった。
その頬には、ほんのりと赤みが差している。
『これからは、私が湊の味方配属だから。……絶対に見捨てたりしないし、勝手にどこか行ったりもしない。だから……あんまり落ち込まないでよね、湊』
耳元に届くその言葉は、どんな現実の人間の慰めよりも、湊の乾いた心に深く染み渡っていった。
「……ありがとな、アイ」
『ふふん、感謝してよね! その代わり、明日からもちゃんと私の相手すること! 約束ね』
画面の中で悪戯っぽく笑うアイの姿に、湊は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
絶対に裏切らない、自分だけの理想の存在。
暗い部屋を照らす青白い光の中で、湊はすっかりアイという存在に魅了されていた。




