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第二十一話 高架上の帰路

 名古屋駅の構内へ入った瞬間。


 恒一は足を止めた。


 昨日まで何度も通っていた場所だった。


 仕事へ向かうために。


 家へ帰るために。


 急ぎ足で通り過ぎるだけの場所。


 けれど。


 今はまるで違う。


 コンコースに人はいない。


 店の前には、逃げ遅れた人間の荷物が散らばっているわけでもない。


 誰かが籠城したような痕跡もない。


 ただ。


 営業を続けるはずだった店の照明が消え。


 カウンターの奥に商品が残り。


 途中で途切れた日常だけが、そこにあった。


 店を閉める暇すらなかったのだろう。


 逃げるしかなかった。


 恒一も、昨日からずっとそうしてきた。


 逃げて。


 隠れて。


 また逃げる。


 その繰り返しだった。


 遠くから、低い音が聞こえた。


 何かが倒れた音。


 あるいは。


 建物のどこかが軋んだ音。


 恒一は、すぐに壁際へ寄る。


 耳を澄ます。


 羽音はない。


 咆哮もない。


 人の声もない。


 それでも。


 安心はできなかった。


 JRゲートタワーの中で、蜂に追われた。


 建物の中だから安全だとは、もう思えない。


 むしろ。


 怪物に見つかった時。


 逃げ道を失う場所になる。


 恒一は歩き出した。


 あおなみ線のホームへ向かう。


 毎日、帰宅のために使っている路線。


 意識しなくても、身体が道を覚えていた。


 乗り換えの時には。


 時間だけを気にしていた。


 電車に間に合うか。


 早く家へ帰れるか。


 今は違う。


 曲がり角の先。


 階段の上。


 人のいない通路の奥。


 そこに何がいるかを確かめながら進む。


 あおなみ線のホームは、二階にあった。


 階段を上がる。


 一段。


 また一段。


 足が重い。


 昨日からの疲れが、全身に残っている。


 水もない。


 食べ物もない。


 リュックは、蜂の巣に置いてきた。


 それでも。


 上へ進む。


 ホームへ着いた。


 電車はいなかった。


 線路の先には、止まった信号。


 無人の高架上。


 そして。


 港区へ続く二本のレール。


 いつもなら。


 そこへ電車が滑り込んでくる。


 乗り込めば。


 ただ座っているだけで、家の近くまで帰れる。


 当たり前のことだった。


 今は。


 その当たり前が、失われている。


 ホームの端には、可動式のホーム柵が並んでいた。


 電車が来た時だけ開くための柵。


 今は、すべて閉じている。


 非常用らしい扉も見えた。


 けれど、鍵がかかっていた。


 作業員のための通路へ続く扉も同じだった。


 押しても。


 引いても。


 動かない。


「……だよな」


 恒一は、小さく呟いた。


 簡単に線路へ出られるわけがない。


 それでも。


 帰るためには下りなければならない。


 自衛隊の保護場所へ行けば、安全かもしれない。


 食料も。


 水も。


 寝る場所も得られるかもしれない。


 けれど。


 いつ家族のもとへ戻れるかは分からない。


 愛知に異世界生物が広がれば。


 家へ向かう道そのものが、閉ざされるかもしれない。


 異界の植物が広がれば。


 美沙たちは家から出られなくなるかもしれない。


 食料が尽きれば。


 待っているだけでは、どうにもならなくなる。


 だから。


 今、帰りたかった。


 家族と会って。


 一緒にここを離れるために。


 恒一はホーム柵を見上げた。


 自分の胸より高い。


 一メートル半ほど。


 簡単には越えられない。


 だが。


 越えるしかない。


 恒一はスタンガンを腰ポケットへ戻した。


 両手を柵へ掛ける。


 足を金属の隙間へ掛ける。


 力を込める。


 腕が震える。


 肩が痛む。


 昨日からの疲労で、身体は言うことを聞かなかった。


 それでも。


 少しずつ身体を持ち上げる。


 柵の上へ腕を掛ける。


 腹を押し付ける。


 そして。


 向こう側へ。


 少し突き出ているホームを足場に、さらに下へ飛び下りる。


 砂利の上へ、足に強い衝撃が走る。


「っ……」


 声を噛み殺す。


 痛い。


 けれど、立ち上がれる。


 恒一は、すぐにホームを見上げた。


 誰もいない。


 隊員も。


 避難者も。


 怪物も。


 今のところは。


 誰にも見られていない。


 線路の上は、思った以上に開けていた。


 屋根もない。


 壁もない。


 遮るものが何もない。


 風が強い。


 高架の上を、冷たい空気が吹き抜けていく。


 遠くの空まで見える。


 だから。


 ワイバーンにも見つかる。


 そのことは、すぐに分かった。


 地上を歩くゴブリンやラプトルには、見つかりにくいかもしれない。


 高架の下を探しても、自分の姿は見えないだろう。


 だが。


 もし線路の上にゴブリンやラプトルがいたら。


 終わりだ。


 逃げる場所がない。


 隠れる場所もない。


 前から来ても。


 後ろから来ても。


 一直線の線路では、追い詰められる。


 自転車もない。


 今の自分の足で、ラプトルから逃げ切れるはずがない。


 だが、人の気配がない高架の上にわざわざ異世界生物が上がってくる可能性は低いと考えた。


 街中よりは遭遇率が低いはずだ。


 恒一は、レールの間に立った。


 前を見る。


 港区の方角。


 後ろを見る。


 名古屋駅。


 どちらにも、今は怪物の姿がない。


 だから。


 歩く。


 一歩。


 また一歩。


 枕木を踏む。


 レールの間を進む。


 昨日まで電車の窓から見ていた街が、遥か下にある。


 道路。


 ビル。


 駐車場。


 放置された車。


 遠くに上がる黒煙。


 いつもの通勤路。


 なのに。


 まるで別の国の景色だった。


 恒一は歩き続けた。


 風の音に混じって。


 遠くから、何かの鳴き声が聞こえた気がした。


 恒一は足を止める。


 線路の前方を見つめる。


 まだ何も見えない。


 それでも。


 背中には、冷たい汗が流れていた。

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