第二十話 保護という壁
一階の出口付近は、混乱していた。
ガラス扉の外には、自衛隊車両が停まっている。
迷彩服の隊員。
警察官。
救急隊員。
そして。
商業施設から救助されたらしい人々。
毛布を肩へ掛けた女性。
泣き続ける子供。
怪我をした男性。
呆然と立ち尽くしている高齢者。
皆が、行き場を失っていた。
隊員たちは、次々に人を誘導している。
「こちらへ進んでください!」
「負傷者を優先します!」
「走らないでください!」
「ご家族とは、避難所で連絡を取れるようにします!」
声が飛び交う。
恒一は、隊列の中央で立ち止まっていた。
ここにいれば安全だ。
少なくとも。
蜂に襲われる可能性は低い。
自衛隊員がいる。
車両もある。
怪我をすれば、救急隊もいる。
昨日から欲しかったものが、ここにはある。
安全。
助け。
人間の秩序。
それなのに。
恒一の胸は、少しも落ち着かなかった。
港区。
美沙。
結菜。
晴翔。
家族の顔が、何度も浮かぶ。
今すぐ帰りたい。
帰らなければならない。
その気持ちだけが、強くなっていく。
さっき恒一を助けた隊員が、近付いてきた。
「神谷さん」
「はい」
「ここから、民間人の方は臨時の保護キャンプへ移ってもらいます」
恒一は頷いた。
「どこですか」
「まだ確定していません」
「周囲の安全状況を見て、移送先を決めます」
それを聞いた瞬間。
胸の奥が冷たくなった。
「港区には行けますか」
隊員は少し黙った。
「ご家族が港区にいるんですか」
「はい」
「妻と子供が」
「昨日から、ずっと帰れていなくて」
自分の声が、情けないほど掠れていた。
隊員は、真っ直ぐ恒一を見た。
「気持ちは分かります」
「ですが、今の街を一人で移動するのは危険です」
「蜂以外にも、多くの異世界生物が確認されています」
「徒歩での帰宅は、許可できません」
分かっている。
言われなくても。
知立からここまで来る間に、何度も死にかけた。
それでも。
ここまで来た。
港区はもう遠くない。
「じゃあ」
恒一は言った。
「いつ帰れますか」
隊員は答えなかった。
答えられないのだ。
恒一にも分かった。
目の前には、救助を待つ人がいる。
負傷者がいる。
家族と離れた子供がいる。
この建物の上には、蜂の巣がある。
その中には、まだ生きた人間がいるかもしれない。
自衛隊が、自分一人を港区の家まで送る余裕などない。
それは当たり前だった。
「臨時の保護キャンプで待っていてください」
隊員が言う。
「安全を確保した上で、順番に対応します」
順番。
その言葉が、恒一の胸へ重く落ちた。
順番が来るまで。
何時間かかる。
一日か。
二日か。
もっとか。
その間に。
港区で何かが起きたら。
美沙たちが助けを必要としていたら。
自分は何もできない。
ただ、安全な場所で待つことになる。
それが正しいのかもしれない。
父親として。
夫として。
生き残るためには。
待つべきなのかもしれない。
けれど。
待てなかった。
頭では分かっている。
でも、心が拒否していた。
「すみません」
恒一は、隊員へ頭を下げた。
「少しだけ、考えさせてください」
隊員は頷いた。
「ここから離れないでください」
「必ず、隊員の見える場所にいてください」
「分かりました」
恒一も頷いた。
嘘ではなかった。
その時は。
本当に、どうすればいいのか分からなかった。
恒一は集団の端へ寄った。
建物の外を見た。
名古屋駅の周辺は、昨日までとは別の街に見えた。
道路には、放置された車。
横転したバス。
割れた信号機。
遠くに黒煙。
空には、時々戦闘機の音がする。
それでも。
ここは知立より人が多かった。
避難する人々。
救助活動をする人々。
車両を誘導する人々。
完全に壊れた街ではない。
まだ人間がいる。
まだ社会は残っている。
恒一は、駅の方向を見た。
あおなみ線の案内表示は、ここからは見えない。
けれど、場所は分かる。
毎日通っている。
朝はあおなみ線の荒子川公園駅から電車へ乗る。
名古屋駅で降りる。
そこから名鉄本線の名鉄名古屋駅へ乗り換える。
帰りは、その逆だ。
だから知っている。
駅の中を抜ければ。
あおなみ線のホームへ向かえる。
電車が動いていなくても。
線路は港区へ続いている。
荒子川公園駅の方へ。
自宅の方へ。
恒一の手が、無意識にスタンガンを握った。
腰ポケットに残った、唯一の武器。
これで何ができる。
ほとんど何もできない。
それでも。
家へ向かうなら、持っていくしかない。
その時。
建物の上階から、爆発のような音が響いた。
蜂の羽音。
無線機から飛ぶ怒鳴り声。
「四階、応援を要請!」
「負傷者あり!」
「上階の救出班と連絡を取れ!」
付近にいた隊員たちが、一斉に動き始める。
臨時の保護キャンプへ向かう人々も、別の隊員に誘導される。
「こちらへ!」
「車両に乗ってください!」
「小さいお子さんを優先します!」
人の流れが生まれる。
恒一も、その流れに押された。
車両へ向かう列。
毛布を受け取る人々。
名前を確認される人々。
泣く子供。
焦る親。
誰もが、自分のことで精一杯だった。
恒一は足を止めた。
この列に入れば。
安全な場所へ行ける。
それは間違いない。
けれど。
港区から遠ざかるかもしれない。
家族のいる方向とは違う場所へ運ばれるかもしれない。
いつ戻れるのかも分からない。
胸の奥で、何かが決まった。
正しいかどうかは分からない。
でも。
もう待てなかった。
恒一は列の端へ寄った。
車両へ向かう人々の背中を見送る。
そして。
隊員たちが上階の戦闘へ意識を向けている間に。
駅へ続く建物の陰へ、静かに歩き出した。
走らない。
走れば目立つ。
ただ。
避難者の一人のように歩く。
少しずつ。
人の流れから外れる。
背後で、誰かが名前を呼んだ気がした。
恒一は振り返らなかった。
振り返れば。
戻れと言われる。
戻れば。
もう家へ向かえない気がした。
ごめんなさい。
心の中で、隊員たちへ謝った。
助けてくれた人たちへ。
自分より危険な場所へ向かう人たちへ。
それでも。
家へ帰りたかった。
美沙のところへ。
結菜と晴翔のところへ。
恒一は、名古屋駅の構内へ続く通路へ入った。
その先には。
毎日使っていた、帰宅のための道がある。




