第十九話 四階の戦闘
黒と黄色の影が、恒一のいる場所へ近付いてくる。
一匹。
二匹。
さらに。
通路の天井近くから、もう一匹。
蜂たちは恒一を見つけていた。
巨大な複眼が、一斉にこちらへ向く。
恒一の喉が凍り付いた。
逃げる。
そう思った。
だが、どこへ。
後ろは五階。
前は四階へ下りる通路。
そして、その先では自衛隊と蜂の戦闘が起きている。
迷っている時間はなかった。
蜂の一匹が羽音を高める。
ぶうううううううん!
恒一は走った。
イベントスペースへ向かって。
椅子を飛び越える。
倒れた案内板を避ける。
背後で、蜂の羽音が迫る。
近い。
頭のすぐ後ろにいる。
「伏せろ!」
突然、男の声が響いた。
恒一は反射的に床へ飛び込んだ。
次の瞬間。
強い白色光が、頭上を切り裂いた。
隊員が携行している大型ライトだった。
暗い商業フロアを照らすための光。
蜂の複眼が、その光を受けて鈍く光る。
直後。
連続した銃声が、建物の中を震わせた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
蜂の羽音が乱れる。
頭上で黒と黄色の巨体が傾いた。
翅の一部を撃ち抜かれたらしい。
蜂は床へ落ちる。
しかし。
すぐに起き上がった。
脚を広げる。
巨大な顎を開く。
「止まってない!」
誰かが叫ぶ。
「撃ち続けろ!」
再び銃声。
蜂は床を這うように進んだ。
速い。
負傷しているのに。
人間の走る速度と変わらない。
迷彩服の隊員が一歩前へ出る。
蜂が飛びかかった。
その瞬間。
横から別の隊員が撃った。
蜂の頭部へ、数発。
甲高い羽音。
巨体が展示台へぶつかる。
展示台が倒れる。
蜂は暴れた。
脚を振り回す。
透明な翅が床を叩く。
それでも。
隊員たちは距離を取ったまま銃を向けていた。
恒一は床に伏せたまま、何もできなかった。
スタンガンを握っている。
だが、使える距離まで近付けない。
近付けば。
あの硬い脚に掴まれる。
巣へ連れて行かれる。
あるいは。
その場で殺される。
自衛隊員の一人が、恒一の方へ手を伸ばした。
「立てますか!」
「はい……!」
恒一は震える脚で立ち上がった。
その瞬間。
通路の奥から、別の蜂が飛び込んできた。
羽音。
衝撃。
隊員の一人が、柱の陰へ吹き飛ばされる。
「二時方向!」
「民間人を下げろ!」
命令が飛ぶ。
さっきまで戦闘を見ているだけだった恒一は、突然、隊員に腕を掴まれた。
「こっちへ!」
引っ張られる。
イベントスペースの奥。
倒れた展示棚と椅子を積み上げた、即席の遮蔽物の裏。
そこには、携行ライトが置かれていた。
白い光が、蜂のいる通路だけを照らしている。
背後で銃声が響く。
蜂が何かにぶつかる音。
人間の怒鳴り声。
すべてが近い。
現実感がなかった。
けれど。
自衛隊員たちは逃げていなかった。
恐怖していないわけではない。
顔は強張っている。
声も震えている。
それでも。
自分より前に立っている。
蜂へ銃を向けている。
恒一は、その姿を見て息を呑んだ。
昨日も。
戦闘機がワイバーンと戦うところを見た。
佐伯の家では。
テレビの向こうで、自衛隊員たちが異世界生物と戦っていた。
人間は何もできないわけではない。
そのことは、分かっていた。
だが。
遠くの空。
テレビ画面。
自分のいる場所ではない戦場。
それらを見て理解することと。
自分の目の前で、誰かが自分を守るために立つことは違った。
携行ライトの白い光。
銃を構える背中。
短く飛ぶ命令。
それらが初めて。
恒一へ、生き残れるかもしれないという感覚を与えた。
数分後。
蜂の羽音が途切れた。
銃声も止む。
残ったのは、携行ライトの白い光と、焦げたような匂いだけだった。
「大丈夫ですか」
目の前にいた隊員が、恒一へ声を掛けた。
若い男だった。
頬に細い傷がある。
それでも、落ち着いた声を出そうとしていた。
「……はい」
恒一は頷いた。
「すみません。助けてもらって」
「怪我は」
「ありません」
自分でも信じられなかった。
十五階の巣から落ちて。
蜂に追われて。
ここまで来て。
まだ生きている。
隊員は少しだけ表情を緩めた。
「よかったです」
「ここに、他の避難者はいませんか」
「分かりません」
恒一は首を振った。
「俺は……十五階から来ました」
隊員の表情が変わった。
「十五階?」
「蜂の巣があります」
「中庭の上に」
「何十匹どころじゃない」
「人間くらいの蜂が、たくさん……」
言葉にするほど、恐ろしくなる。
隊員は驚かなかった。
ただ、確認するように聞いた。
「民間人を運び込んでいるところは見ましたか」
恒一は息を呑んだ。
「俺が運ばれていました」
「蝶みたいなやつの鱗粉で眠らされて」
「それから、蜂に……」
言葉にするだけで、身体が震えた。
隊員は無線機へ手を伸ばす。
「こちら第三区画」
「十五階の巣から逃げた民間人一名を保護」
「運搬個体による生存者の搬入を本人が証言」
無線の向こうで、何か返答があった。
雑音が混じって聞き取れない。
ただ。
隊員の表情がさらに厳しくなった。
「了解」
「上階の救出班へ情報共有します」
無線を切る。
恒一の方を向いた。
「我々は、巣に連れて行かれた民間人の救出と、下層階の蜂の排除を行っています」
「上の階にも別の部隊が入っています」
「今の話は、救出に必要な情報です」
恒一は黙った。
巣の中に。
まだ生きている人がいるかもしれない。
それを助けるために。
自衛隊は、あの蜂の巣へ向かっている。
自分にはできなかったことを。
この人たちがやろうとしている。
「……助けてください」
恒一は、小さく言った。
「巣の中に、他にもいるかもしれない」
隊員は頷いた。
「救出します」
短い言葉だった。
けれど。
迷いのない声だった。
「お名前は?」
「神谷です」
「神谷さん」
隊員が続けた。
「一階へ向かいます」
「建物の外へ出れば、避難誘導の部隊と合流できます」
恒一は頷いた。
「お願いします」
それしか言えなかった。
隊員たちは素早かった。
負傷した隊員を二人が支える。
残りの隊員が前後を固める。
恒一はその中央に入れられた。
「絶対に隊列から離れないでください」
「走れと言われたら走ってください」
「立ち止まらないで」
「はい」
恒一は何度も頷いた。
四階から三階へ。
離れた位置にある下りエスカレーターを使う。
銃を構えたまま。
一人ずつ。
下へ。
三階。
二階。
一階。
商業フロアを下りる。
店内には、蜂の姿はなかった。
だが。
床には黒い粘液が残っていた。
壁にも。
天井にも。
蜂は確実に、この建物の下へ広がっている。
それでも。
隊員たちは止まらない。
建物の出口を目指す。
恒一もついていく。
もう一度。
家へ帰るために。
一階へ下りた時。
恒一は、大きなガラス扉の向こうを見た。
名古屋駅の周辺が見える。
止まった車。
避難する人影。
遠くの黒煙。
駅の構内も、すぐそこにある。
あおなみ線の案内表示は見えない。
けれど。
恒一には分かっていた。
毎日。
通勤の時に通っている。
港区へ帰るためには。
駅の中を抜けて。
あおなみ線のホームへ向かえばいい。
電車が動いていなくても。
線路は、荒子川公園駅の方へ続いている。
家へ近付く道が。
そこにある。




