第十八話 下りるための道
十三階のレストラン街。
恒一は、下りエスカレーターの前で身を伏せていた。
店の入口に置かれた案内板。
その陰から、通路の様子を窺う。
蜂は二匹いた。
一匹は、床に散った料理を触角で探っている。
もう一匹は、店のガラスへ複眼を押し付けていた。
店内に人間が隠れていないか、巣に使えそうなものがないか。
確かめているように見えた。
羽音が低く響く。
ぶうううううん。
下りエスカレーターはすぐ近くにある。
あと十数メートル。
そこへ飛び乗れば十二階へ下りられる。
さらに。
下り切った先で百八十度向きを変えれば、すぐ隣に次の下りエスカレーターがある。
それを繰り返せば。
下へ行ける。
一階まで。
外まで。
家へ帰る道へ。
だが。
蜂の前を横切らなければならない。
恒一は唇を噛んだ。
その時。
レストランの奥で、食器が派手に崩れる音がした。
がしゃん、と。
蜂たちが同時に顔を上げる。
次の瞬間。
二匹は羽音を響かせ、店内へ飛び込んでいった。
恒一は考えなかった。
身体が先に動いていた。
案内板の陰から飛び出す。
下りエスカレーターへ駆け寄る。
動いていない。
それでも構わない。
手すりを掴み、段差を駆け下りた。
一段。
二段。
三段。
背後で羽音が変わる。
店の中にいた蜂たちが、気付いた。
恒一は振り返らない。
十二階の床へ飛び降りる。
そして。
すぐに身体を反転させた。
目の前には、次の下りエスカレーター。
そのまま飛び乗る。
また駆け下りる。
十二階から十一階へ。
蜂達は恒一の姿を視認できなかったためか、追ってくることはなかった。
十一階。
エスカレーターを下り切った先には、服や雑貨を扱う明るい売場が広がっていた。
照明は落ちている。
非常灯だけが赤く通路を照らしている。
倒れたマネキン。
散らばった服。
開いたままのレジ。
昨日まで買い物客で賑わっていた場所が、死んだように静かだった。
だが。
立ち止まる余裕はない。
蜂の姿が無いのであれば直ぐに先へ進むべきだ。
恒一はまた百八十度向きを変える。
すぐ隣の下りエスカレーターへ飛び乗る。
十一階から十階へ。
十階から九階へ。
下りる。
下りる。
ただひたすら。
下へ。
九階と十階は、家電量販店のフロアだった。
大型テレビの画面はすべて暗い。
パソコン。
カメラ。
スマートフォン。
ゲーム機。
昨日までは便利な道具だったものが、棚に並んでいる。
今はただの景色だった。
恒一は売場を見ることもなく、下りエスカレーターだけを見る。
下り切る。
反転する。
次のエスカレーターへ。
その繰り返し。
速く下りられる。
だが。
身を隠す時間はない。
エスカレーターの上にいる間は、どこからでも見える。
天井。
吹き抜け。
売場の奥。
蜂がいれば、すぐに見つかる。
恒一は走りながら、何度も空を見上げた。
追ってくる蜂の影がないことを祈った。
八階。
七階。
六階。
商業フロアを下るにつれ、店の看板が目まぐるしく変わる。
服。
靴。
生活雑貨。
化粧品。
誰かが途中まで選んでいた商品の山。
床に落ちた買い物袋。
片方だけの靴。
逃げた人間たちの痕跡が、あちこちに残っていた。
恒一は見ないようにした。
想像すれば、足が止まる。
下りる。
反転する。
また下りる。
今の自分にできることは、それだけだった。
五階へ着いた時だった。
遠くから、連続した破裂音が聞こえた。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
乾いた音。
だが、映画で聞く銃声よりも重い。
建物の中で反響し、胸の奥まで響いた。
恒一は立ち止まった。
「……自衛隊?」
また銃声。
今度は、もっと近い。
下の階。
四階の方角だった。
続いて。
蜂の羽音が聞こえる。
ぶうううううん。
何匹も。
人間の怒鳴り声。
銃声。
何かがぶつかる音。
四階で戦っている。
恒一はエスカレーターの手すりを握った。
ここまでは。
下り切って反転すれば、すぐ次の下りエスカレーターがあった。
だが。
五階から四階へ下りるエスカレーターだけは違う。
売場の奥。
少し離れた場所にある。
案内板の矢印は、イベントスペースと休憩スペースの方向を指していた。
そこまで行かなければ、下へ下りられない。
恒一は周囲を見回した。
通路は広い。
隠れる場所は少ない。
それでも進むしかなかった。
売場の陰を使う。
倒れた展示棚を越える。
音を立てないように歩く。
通路の先に、広い空間が見えた。
イベントスペースだった。
椅子。
案内板。
簡易的な展示台。
それらが、通路を塞ぐように散らばっている。
そして。
その向こうに。
迷彩服を着た人影が見えた。
自衛隊員だった。
数人が床へ膝をつき、銃を構えている。
視線の先では。
巨大な蜂が、低い羽音を響かせながら飛び回っていた。
恒一は息を呑んだ。
助かった。
そう思いかけた。
だが。
蜂は一匹ではなかった。
暗い通路の奥から。
もう一匹。
さらに一匹。
黒と黄色の影が、恒一のいる場所へ近付いてきていた。




