第十七章 蜂の巣
(以降JRゲートタワー、セントラルタワーについての記述がありますが、一部想像で書いているため、事実とは異なる部分があります。ご了承ください。)
蜂の巣は、想像していたものよりも巨大だった。
JRゲートタワー十五階。
地上から遠く離れた、スカイストリートに面した中庭の上空。
その空間を覆うように、黒褐色の巣が広がっていた。
枝。
鉄骨。
看板の破片。
布。
壊れた室外機の部品。
ありとあらゆるものが粘ついた素材で固められ、複雑に組み上げられている。
中庭にあったはずの植栽も。
ベンチも。
通路の一部も。
巣の材料に飲み込まれていた。
その隙間には、いくつもの穴が開いている。
穴の奥で何かが動く。
巨大な複眼。
透明な翅。
黒と黄色の縞模様。
蜂たちだった。
何十匹どころではない。
もっといる。
巣の中にも。
中庭の周囲にも。
空にも。
恒一の背筋を、冷たい汗が流れた。
ここへ運ばれた人間は、自分だけではないかもしれない。
考えたくなかった。
もし、巣の奥に生きた人間がいるなら。
もし、もう助からない人間がいるなら。
今の自分に何ができる。
何もできない。
それが分かっているからこそ、考えたくなかった。
蜂は中庭の端へ近付いていく。
着地するつもりらしい。
硬い脚が、恒一の胴体を締め付けている。
少しでも暴れれば、落とされるかもしれない。
この高さから落ちれば終わりだ。
だから、まだ動けない。
待つしかない。
下に見えるのは、中庭の床だった。
倒れた植木鉢。
巣の材料にされかけた金属板。
壊れたベンチ。
蜂は、その隙間へ降りようとしていた。
今しかない。
恒一はそう思った。
腰ポケットへ、ゆっくり手を伸ばす。
指先が黒いケースに触れた。
その感触だけで、少しだけ呼吸が戻る。
スタンガンを取り出す。
手が震えている。
落とすな。
絶対に落とすな。
スイッチを入れる。
小さな青い光が走った。
ぱち、ぱち、と乾いた音がする。
蜂が、わずかに身じろぎした。
音に気付いたのかもしれない。
巨大な複眼が、こちらへ向く。
恒一は息を止めた。
次の瞬間。
蜂の脚が中庭の床へ触れた。
着地。
その一瞬を待っていた。
「……っ!」
恒一は腕を振り上げた。
スタンガンの先端を、蜂の腹部へ押し当てる。
青白い火花が散った。
蜂の身体が大きく跳ねる。
ぶうううううううん!
耳を裂くような羽音。
恒一の身体を掴んでいた脚が、痙攣するように緩んだ。
落ちる。
恒一は中庭の床へ転がり込んだ。
肩を強く打つ。
痛みで息が詰まる。
だが立ち止まれない。
蜂はまだ死んでいない。
地面でもがいている。
翅を激しく震わせ、甲高い音を上げていた。
仲間を呼んでいる。
「まずい……」
恒一は立ち上がった。
足がふらつく。
鱗粉の眠気がまだ残っている。
視界も完全には戻らない。
それでも走る。
巣の反対側へ。
中庭に面した設備の陰へ。
その背後で、何匹もの羽音が一斉に高くなった。
蜂たちが気付いた。
巣の穴から、黒と黄色の影が飛び出してくる。
恒一は室外機の陰へ身を滑り込ませた。
両手で口を押さえる。
息を殺す。
すぐ近くを、巨大な蜂が飛んだ。
ぶうん。
ぶうん。
ぶうん。
羽音が、頭のすぐ上を通る。
蜂たちは仲間の周囲を旋回している。
地面で痙攣する一匹。
その近くには、恒一が落としたリュックがあった。
さっきまで背負っていたもの。
肩紐が一つのタイプだったからか、着地の衝撃で肩から外れたらしい。
水。
乾パン。
缶詰。
家族の写真が入った財布。
全部がそこにある。
取りに戻ることはできない。
蜂の視線が集まっている。
今は、生きることが先だ。
恒一は歯を食いしばった。
美沙たちの写真まで置いていくような気がして、胸が痛んだ。
だが、戻れば死ぬ。
帰るためには、捨てるしかない。
その時。
一匹の蜂が、室外機の向こうへ降りた。
恒一から見えない位置。
けれど、すぐ近くだ。
硬い脚が床を擦る音がする。
かり、かり、と。
触角が何かを探るように動く影が、床に映った。
見つかる。
そう思った。
心臓が暴れ出す。
逃げたい。
走りたい。
でも動けば音が出る。
蜂の影が、少しずつ近付いてくる。
恒一は目を閉じた。
その直後。
中庭の反対側で、大きな羽音が響いた。
別の蜂が、スタンガンで痙攣している仲間のそばへ降りたのだろう。
近くにいた蜂もそちらへ飛んでいく。
羽音が遠ざかる。
今だ。
恒一は室外機の陰から飛び出した。
中庭に面した通路へ走る。
十五階のスカイストリート。
JRゲートタワーと、隣のJRセントラルタワーズを結ぶ空中街路だった。
普段なら。
ホテルへ向かう客。
会社員。
食事を終えた人々。
そんな人間が行き交っているはずの場所。
今は誰もいない。
床には、巣の材料が散らばっていた。
折れた鉄骨。
硬化した粘液。
黒い羽。
何かの骨。
踏まないように避けながら進む。
足を滑らせれば終わる。
背後で、蜂たちの羽音が再び変わった。
甲高い。
明らかに、何かを探している音だった。
恒一は通路の先を見た。
下へ向かうエスカレーターがある。
十四階へ続くエスカレーター。
「頼む……」
恒一は走った。
エスカレーターへ飛び乗る。
動いていない。
だが構わない。
手すりを掴み、段差を駆け下りる。
一段。
二段。
三段。
下へ。
少しでも下へ。
この高さから離れなければならない。
あと少しで十四階へ着く。
そう思った時だった。
下から、低い羽音が聞こえた。
ぶうううううん、と。
恒一は足を止めた。
十四階の踊り場。
そこに蜂がいた。
一匹ではない。
二匹。
三匹。
黒と黄色の巨体が、エスカレーターの下で蠢いている。
巣から運ばれてきた何かを、触角で確かめていた。
人間の荷物。
壊れた椅子。
店の看板。
そして。
床には、黒く汚れた衣服が落ちていた。
恒一の全身が強張る。
あそこを通れば見つかる。
下りることはできない。
戻れば、十五階の巣がある。
逃げ道がなくなった。
「……どうする」
声が震えた。
その時。
背後で、蜂の羽音が近付いた。
十五階の中庭から出てきた蜂だ。
恒一は反射的に身を翻した。
スカイストリートの奥。
JRセントラルタワーズへ続く連絡路へ走る。
長い通路。
ガラスの向こうには、朝の名古屋駅前が見える。
ガラスが割れたビル。
放置された車。
黒煙。
それを見ている余裕はなかった。
ただ走る。
背後から羽音が追ってくる。
ぶうううううん。
近い。
近すぎる。
連絡路の先で、通路が分かれていた。
片方はホテルやオフィスへ向かう側。
もう片方には、下層階へ向かう案内板が残っている。
下層階へ向けて恒一は全力で走った。
十三階へ向かうエスカレーターを見つけ、安全を確認してから駆け下りる。
十三階に着いて直ぐに十二階へ降りるエスカレーターへ180度Uターンして駆け下りようとする。
しかし、下の階から複数の羽音が聞こえてきた。
この下には確実に蜂がいる。
周囲を見回したとき、JRゲートタワーへ向かう連絡路の案内が見えた。
先ほど上階の連絡路を渡る前にいた建物だ。
恒一はためらわず、連絡路を走った。
背後で、蜂の羽音が反響した。
連絡路まで追ってきている。
恒一は振り返らなかった。
JRゲートタワー十三階。
レストラン街だった。
照明の大半は消えている。
非常灯だけが、赤く通路を照らしていた。
割れた食器。
倒れた椅子。
床に散った料理。
昨日まで人で賑わっていたはずの店が、静まり返っている。
だが。
静かすぎる。
恒一はエスカレーターを降りた直後、近くの店の陰へ隠れた。
少し先の通路で。
何かが動いた。
黒と黄色の影。
蜂だった。
一匹。
二匹。
店のガラスに触角を押し付けている。
店内を探している。
そこに生きた人間がいるかもしれない。
あるいは。
蜂にとって役に立つものがあるのかもしれない。
恒一はスタンガンを握り直した。
十五階の巣からは逃げられた。
だが。
建物の中もまた、蜂たちの縄張りになり始めていた。
ここから下へ行くには。
蜂を避けながら。
十二階。
十一階。
十階。
九階。
商業フロアを通り抜けなければならない。
そして、その先には一階がある。
港区の家へ帰るための入口が。
恒一は息を殺した。
蜂が通路の奥へ移動するのを待つ。
まだ。
帰る道は残っている。




