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第十六章 眠りを運ぶ蝶

 佐伯の家を出た時、空はまだ薄い青色だった。


 朝日が住宅街の屋根を照らしている。


 鳥の声はない。


 車の音もない。


 人が生活を始める時間のはずなのに、街は死んだように静かだった。


 恒一は自転車のハンドルを握りしめた。


 背中のリュックには、水、乾パン、缶詰。


 そして、腰ポケットには佐伯から受け取ったスタンガン。


 小さな黒いケースを、何度も確かめた。


 これで怪物に勝てるとは思っていない。


 ただ、何も持たずに外へ出るよりはいい。


 それだけだった。


「帰る」


 声に出す。


 小さな声だった。


 それでも、自分に言い聞かせるようにもう一度呟いた。


「帰る」


 港区まで。


 美沙のところへ。


 結菜と晴翔のところへ。


 恒一はペダルを踏み込んだ。


 朝の街は、昨日の夕方よりも不気味だった。


 怪物が見えない。


 人間も見えない。


 何かが壊れた車。


 開いたままの玄関。


 道路に落ちた買い物袋。


 誰かが急いで逃げた痕跡だけが、あちこちに残っている。


 恒一は建物の陰を選んで進んだ。


 交差点へ出る前に止まる。


 空を見る。


 道路を見る。


 音を聞く。


 何もいなければ、また進む。


 昨日から繰り返してきたことだった。


 だが、緊張は少しも薄れなかった。


 むしろ、夜を越えたことで恐怖は増していた。


 昨日見た怪物たちは、夜の間も街を歩いていたのだろうか。


 誰かを襲ったのだろうか。


 眠っている人間の家へ、入り込んだのだろうか。


 考えたくなかった。


 考えれば、足が止まる。


 だから恒一は前だけを見た。


 しばらく進んだ頃だった。


 頭上で、羽音がした。


 最初は、風の音だと思った。


 だが違う。


 羽が擦れるような、乾いた音。


 ぱた、ぱた、ぱた、と。


 規則的ではない。


 何かが、空中で何度も羽ばたいている。


 恒一は自転車を止めた。


 路地の脇。


 古い集合住宅の壁際へ寄る。


 慎重に顔を上げた。


 空に、何かがいた。


「……なんだ、あれ」


 蝶に見えた。


 けれど、蝶ではなかった。


 大きい。


 翼を広げれば一メートルほどある。


 その翼は四枚ではない。


 八枚あった。


 薄い膜のような羽が、重なり合いながらゆっくり動いている。


 胴体の下からは、何本もの触手が垂れていた。


 細く、長い触手。


 風に揺れているようで、時折、生き物の意思を持つように蠢く。


 一体。


 二体。


 三体。


 さらにその後ろにもいる。


 群れだった。


 恒一は息を止めた。


 見つかるな。


 ただそれだけを願う。


 蝶のような生物たちは、高いところをゆっくり飛んでいた。


 ワイバーンのように獲物を探している様子はない。


 ラプトルのように、地上を警戒している様子もない。


 ただ、空を漂っていた。


 だからこそ、余計に不気味だった。


 その時。


 一体が羽ばたいた。


 ふわり、と。


 空気中に、何かが広がる。


 白い粉。


 いや、淡い青色の鱗粉だった。


 朝日に照らされて、霧のように舞っている。


 綺麗だ、と一瞬だけ思った。


 直後。


 恒一の意識が、急に重くなった。


「……え?」


 まぶたが重い。


 身体がだるい。


 昨日から疲れている。


 ほとんど眠れていない。


 そのせいだと思おうとした。


 だが違う。


 自転車のハンドルを握る指から、力が抜けていく。


 視界がぼやける。


 頭が、うまく回らない。


「まずい……」


 言葉にしたつもりだった。


 自分の声が遠い。


 眠い。


 異常なほど眠い。


 寝てはいけない。


 ここで眠ったら駄目だ。


 怪物がいる。


 家族が待っている。


 帰らなければならない。


 その考えだけが、頭の中で必死に回っていた。


 それなのに。


 足が地面につかない。


 自転車が傾く。


 恒一は壁に手をつこうとした。


 けれど、腕が言うことを聞かなかった。


 スタンガン。


 せめて出さなければ。


 ポケットへ手を伸ばす。


 指先が届かない。


 視界が暗くなる。


 空にいる八枚羽の生物が、ぼやけた影になった。


「……美沙」


 妻の名前を呼んだ。


 それが最後だった。


 恒一の身体は、道路へゆっくり倒れた。


 夢を見た。


 家のリビングだった。


 美沙がキッチンに立っている。


 結菜は宿題をしている。


 晴翔は床に寝転がり、何かのアニメを見て笑っていた。


 いつもの光景だった。


 帰りたいと思った。


 ただ、そこへ帰りたいと思った。


 けれど、家の外から羽音が聞こえた。


 ぶうううううん、と。


 窓の外が暗くなる。


 結菜が顔を上げる。


「パパ」


 その声が、遠くなる。


「パパ、帰ってきて」


 恒一は答えようとした。


 だが、声が出ない。


 身体が動かない。


 窓の外には、巨大な複眼があった。


 黒く濡れた目。


 蜂の目だった。


 冷たい風が頬を打った。


 恒一は目を開けた。


 最初、何が起きているのか分からなかった。


 空。


 朝の空。


 自分の身体が揺れている。


 下を見る。


 地面が、遥か遠くにあった。


「……え?」


 喉から、掠れた声が出た。


 自分は空中にいた。


 誰かに抱えられている。


 いや。


 掴まれている。


 胴体の周りに、硬い脚が巻き付いていた。


 黒と黄色の縞模様。


 太い腹部。


 透明な翅。


 巨大な複眼。


 人間と同じくらいの大きさがある、蜂のような生物だった。


「……っ」


 叫びそうになって、恒一は慌てて口を閉じた。


 蜂は、恒一を運んでいた。


 どこかへ。


 羽音が耳を叩く。


 ぶうううううん、と、頭の奥まで震えるような低い音。


 腕を動かそうとする。


 だが、身体がまだ重い。


 鱗粉のせいなのか。


 眠気が完全には抜けていない。


 リュックは背負ったままだった。


 スタンガンはポケットにある。


 恒一は無理に身体を動かさず、周囲を見た。


 街が見える。


 壊れた道路。


 止まった車。


 遠くに黒煙。


 そして。


 前方に、名古屋駅が見えた。


「なんで……」


 恒一の顔から血の気が引いた。


 セントラルタワー、JRゲートタワー、スパイラルタワー。


 見慣れたはずの高層ビルが、遠くにそびえている。


 JRゲートタワーの屋上に。


 何かがあった。


 黒い塊。


 枝。


 鉄骨。


 布。


 車の部品。


 巣だった。


 巨大な蜂の巣。


 屋上全体を覆うように、作られていた。


 その周りを、何十匹もの巨大な蜂が飛んでいる。


 恒一の呼吸が止まりそうになる。


 連れて行かれる。


 あそこへ。


 巣へ。


 このまま運ばれたら。


 次に何が起きるのか。


 考えたくなかった。


 だが、考えなければならない。


 帰るために。


 生きるために。


 恒一は震える手を、ゆっくりポケットへ伸ばした。


 黒いケースの感触を探しながら。


 蜂の巣は、もう目の前まで迫っていた。

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