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第十二章 帰る場所

 夕方。


 空は少しずつ暗くなり始めていた。


 街には長い影が伸びている。


 夜が近づいていることが分かった。


 恒一は自転車を漕ぎながら空を見る。


 ワイバーンの姿はない。


 それでも何度も確認してしまう。


 もう二度とあの姿を見たくないと祈りながら。


「この先です」


 佐伯が言った。


 声に少しだけ力が戻っていた。


「もう少しで家です」


 その言葉に。


 恒一は小さく頷いた。


 知立から。


 怪物だらけの道を。


 何度も死にそうになりながら。


 ようやく。


 佐伯の家が見える。


 普通の住宅街。


 普通の家。


 それが今は何より安心できる光景だった。


 二人は自転車を止める。


 佐伯は周囲を見る。


 道路。


 家の屋根。


 空。


 異常がないことを確認する。


 そして鍵を取り出した。


 玄関を開けて中へ入る。


 恒一も続く。


 恒一が入ってすぐ、佐伯は玄関の扉を閉めた。


 鍵をかける。


 補助錠も確認する。


 外には何がいるか分からない。


 少し前までの日常なら、帰宅してすぐ家族へ声をかけていた。


 でも今は違う。


 まず。


 安全を確保する。


 それが当たり前になっていた。


 佐伯は一度深呼吸をする。


「ただいま」


 静かな声だった。


 数秒。


 何も起きない。


 恒一が少し不安になった瞬間。


「お父さん……?」


 奥から声がした。


 足音。


 そして。


「あなた!」


 女性が駆けてくる。


 佐伯の妻、美奈だった。


 その後ろには二人の娘。


 高校生くらいの長女、莉央。


 まだ幼さの残る次女、結衣。


 三人とも。


 ずっと待っていたのだろう。


 佐伯の姿を見た瞬間。


 表情が崩れた。


「無事だったの……?」


 美奈が震える声で言う。


「ああ」


 佐伯は頷いた。


「帰ってきた」


 その言葉に。


 結衣が佐伯へ走り寄る。


「怖かった……」


 小さな声。


 佐伯は娘を抱きしめる。


「ごめんな」


「遅くなった」


「でも」


「帰ってきたから」


 莉央も涙をこらえながら近づく。


「本当に……帰ってこないかと思った」


「悪かった」


 佐伯は何度も謝った。


 恒一はその様子を見ていた。


 羨ましい。


 そう思った。


 自分も早く。


 美沙と。


 結菜と。


 晴翔と。


 会いたい。


「すみません」


 佐伯が我に返る。


「紹介します」


 家族へ向き直った。


「妻の美奈に、娘の莉央と結衣です」


「この人は神谷さん」


「途中で出会って、一緒にここまで来たんだよ」


「協力して逃げてきたんだ」


 恒一は頭を下げる。


「神谷です」


「突然すみません」


「いえ」


 美奈は首を振った。


「主人を助けてくれたんですね」


「ありがとうございます」


「そんな……」


 恒一は困った。


「お互い助け合っただけです」


 佐伯は少し笑った。


「でも、神谷さんがいなかったら俺はここに帰れていなかったかもしれない」


「本当にありがとうございます」


 その言葉に。


 恒一は何も返せなかった。


 リビングへ移動する。


 電気がついた。


 恒一は少し驚く。


「電気……来てるんですね」


「そうみたいですね」


 佐伯も驚く。


「ここはまだ大丈夫みたいです」


「ホームセンターは停電していました」


「たぶん送電設備か、周辺の何かが壊れたんでしょうね」


 確かに。


 異世界生物が現れたからといって、全ての電気が止まるわけではない。


 被害の場所による。


 そう考える方が自然だった。


 少し落ち着いたところで。


 佐伯は家族へ向き直る。


「今までのことを話すよ」


 そして。


 佐伯は話し始めた。


 知立駅で起きたこと。


 怪物のこと。


 逃げている途中で恒一と出会ったこと。


 ホームセンターでの戦い。


 ゴブリン。


 巨大な昆虫。


 人が死んだこと。


 ワイバーンと戦闘機が戦っていたこと。


 自転車でここまで来たこと。


 家族は黙って聞いていた。


 時々。


 信じられないという顔をする。


 でも。


 佐伯の傷と疲労が現実だと伝えていた。


「……これからどうなるの?」


 莉央が呟いた。


「まだ分からない」


 佐伯が答える。


「でも」


「外に出るのは危険だ」


 その後。


 恒一も自分の話をした。


 港区に家族がいること。


 帰る途中だったこと。


 出会った怪物。


 ワイバーン。


 戦闘機。


 そして。


 帰りたい理由。


「私は帰りたい」


 恒一は言った。


「家族が待っているから」


 佐伯は静かに頷いた。


 少し時間が経った後。


「神谷さん」


「今日はもう外に出ない方がいいと思います」


 恒一は黙る。


「夜は危険です」


「暗い中で怪物に遭遇したら、自転車でも逃げられない可能性があります」


 確かに。


 昼間でも何度も死にかけた。


 夜なら。


 想像しただけで背筋が冷える。


 恒一は外を見る。


 もう昼間とは違う。


 建物の影が濃くなっている。


「なので」


 佐伯は続ける。


「今日は泊まってください」


「……ありがとうございます」


 恒一は迷った。


 でも。


 その提案はありがたかった。


「一泊だけ」


「お世話になります」


 佐伯は頷いた。


「それと」


 少し間を置く。


「もしよければ」


「この騒動が落ち着くまで、ここにいても構いません」


「南海トラフ地震に備えて、食料や水はかなり備蓄しています」


「数日程度なら問題ありません」


「一人増えたくらい気にしないでください」


 恒一は黙った。


 ここに残る。


 それは安全かもしれない。


 佐伯の家には食料がある。


 水もある。


 家族もいる。


 でも。


 頭に浮かぶ。


 ホームセンターでの光景。


 ゴブリン数体。


 巨大な昆虫一体。


 それだけで死傷者が出た。


 もし。


 岡崎から異世界生物が流れているなら。


 時間が経てば増える可能性がある。


 夜を迎えれば。


 さらに状況が悪化するかもしれない。


 滞在すれば帰れずに死ぬかもしれない。


 一方で。


 今日見た戦闘もある。


 自衛隊は戦っていた。


 人間側も何もできないわけではない。


 自衛隊が異世界生物を駆除できれば安全に帰れるかもしれない。


 滞在する方が死なない確率が高いかもしれない。


 どちらが正しいのか分からなかった。


「佐伯さん」


「はい」


「滞在するかどうかは」


「少し考えさせてもらってもいいですか」


 佐伯はすぐ頷いた。


「もちろんです」


「神谷さんの人生ですから」


「ありがとうございます」


 その後。


 佐伯は家族と話を続けた。


 恒一はスマートフォンを取り出す。


 充電をさせてもらいながら。


 電源を入れる。


 画面には大量の通知。


 妻。


 娘。


 家族からだった。


 手が震える。


 すぐ電話をかけた。


 数回の呼び出し。


「あなた……!」


 声が聞こえた。


 それだけで胸がいっぱいになった。


「無事か」


「あなたこそ……!」


 互いの無事を確認する。


 そして。


 一通り話した後。


 恒一は伝えた。


 今は佐伯の家にいること。


 今夜泊まること。


 そして。


 ここに残るか迷っていること。


 すると。


「そこにいて」


 妻が言った。


 恒一は黙る。


「外は危険過ぎる」


「お願い」


「そこにいて」


「私達は大丈夫だから」


「無理して帰らない方がいいわ」


 その言葉が苦しかった。


 帰りたい。


 でも。


 妻が望んでいるのは。


 自分が無事でいることだった。


 娘。


 息子とも少し話す。


「外に出るなよ」


「絶対だからな」


 そう伝える。


 電話を切った。


 そして恒一はしばらく画面を見つめていた。

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