第2話「翠緑の防壁と商才の令嬢」
黄金色に染まった畑の真ん中で、村人たちの歓声が絶え間なく響いている。
男たちは太く実った麦を無我夢中で刈り取り、女や子供たちは巨大に育った野菜を泥まみれになりながら掘り起こしている。
誰の顔にも、数日前までの死を待つような暗い影はなかった。
アルトも彼らに混じり、額の汗を拭いながら収穫の束を荷車に積み上げていた。
土の匂いと、植物の青臭い香りが風に乗って村中に満ちている。
だが、その豊かな香りは、飢えた人間だけでなく、森の奥に潜む者たちの鼻腔をも刺激していた。
アルトの手がふと止まる。
足の裏から伝わってくる土の振動が、普段とは違う不規則なリズムを刻んでいた。
遠くの森から、無数の鳥が一斉に飛び立つのが見えた。
木々の枝が不自然に大きく揺れ、葉が引きちぎられるように舞い散る。
そして、地鳴りのような重い足音が、腹の底を震わせるように近づいてきた。
収穫の手を止めた村人たちが、不安げに森の方向へ視線を向ける。
木立を薙ぎ倒して姿を現したのは、大人の背丈ほどもある巨大な獣の群れだった。
硬い剛毛に覆われた猪のような姿をしているが、口からは歪に伸びた牙が突き出し、目は血走った赤色に染まっている。
辺境の森に棲む、凶暴な害獣の群れだ。
普段は森の奥深くに潜む彼らが、作物の放つ強烈な生命力に引き寄せられて山を下りてきたのだ。
獣たちの荒い鼻息が白い霧となって吐き出される。
足元で土を蹴り上げ、次の瞬間、群れは一斉に畑に向かって怒涛の突進を始めた。
村人たちの悲鳴が上がる。
クワやカマを放り出し、我先にと村の方へ逃げ惑う。
だが、アルトは逃げなかった。
彼は深く息を吸い込み、迫り来る獣の群れと村人たちとの間に進み出た。
両足を肩幅に開き、地面にしっかりと根を張るように立つ。
そして、両手を胸の前で合わせ、足元の大地に向かって深く意識を沈めた。
『……応えてくれ』
思考の波が、つま先から地中深くへと放射状に広がっていく。
地下で眠る無数の種や根のネットワークが、アルトの意志に呼応して震え始める。
土の奥底から急激に水分と栄養が引き上げられ、地面が生き物のように波打ち始めた。
獣の群れがアルトの数歩手前まで迫り、鋭い牙が彼の体を突き刺そうとしたその時。
アルトの足元の土が爆発するように弾け飛んだ。
太さのある巨大な緑のツタが、何十本も束になって地中から天を突くように飛び出した。
それは蛇のようにうねりながら絡み合い、瞬く間にアルトと獣の間に分厚く高い翠緑の壁を築き上げた。
突進してきた先頭の獣が、勢い余ってその壁に激突する。
硬い岩にぶつかるような衝撃ではない。
ツタの壁は獣の質量を柔らかく受け止め、トランポリンのように深く沈み込んでから、強い反発力で獣の巨体を後方へと弾き飛ばした。
弾き飛ばされた獣は地面を転がり、後続の群れを巻き込んで土煙を上げる。
壁はそれだけでは終わらなかった。
地面から新たに無数の茨が這い出し、混乱する獣たちの四肢に絡みついていく。
棘は獣の硬い毛皮を傷つけることなく、しかし身動きを完全に封じるほどの強固さで彼らを締め上げた。
足掻けば足掻くほど茨はきつく締まり、獣たちは次第に疲労し、やがて戦意を喪失して大人しく地面に伏せた。
アルトが小さく息を吐き、手を下ろす。
茨の拘束がふっと解け、ツタは意思を持っているかのように地中へと引き返していった。
解放された獣たちは、立ち塞がる緑の壁とアルトを恐ろしげに見つめた後、尾を巻いて森の奥へと逃げ帰っていった。
一滴の血も流れることのない、完全な防衛だった。
静まり返った畑に、風が吹き抜ける。
村人たちは腰を抜かしたまま、目の前で起きた信じがたい光景をただ見つめていた。
◆ ◆ ◆
その時、畑の脇を通る街道から、乾いた轍の音が近づいてきた。
装飾は豪華だが、あちこちに傷が目立つ黒塗りの馬車が止まる。
御者台から飛び降りた初老の男が、馬車の扉を開けた。
中から現れたのは、上質な生地ながらも着古されたドレスを身にまとった少女だった。
透き通るような金色の髪を風に揺らし、意志の強そうな青い瞳が、辺りの惨状と、無傷の畑、そして中央に立つアルトを真っ直ぐに射抜いていた。
彼女はためらうことなく、泥だらけの畑へと足を踏み入れた。
華奢な靴が土に沈むのも気にせず、アルトの足元に転がっていた傷一つない巨大な大根の前にしゃがみ込む。
白い指先で土を払い、その表面の瑞々しさを確かめるように撫でる。
そして、顔を上げた彼女の瞳には、熱を帯びた鋭い光が宿っていた。
「驚いたわ。これほどの生命力を内包した作物は、王都の品評会でも見たことがない。それに、先ほどの植物の防壁。あなたはいったい、何者なの」
少女の声音は透き通って聞き取りやすく、しかしどこか人を惹きつける力強い響きがあった。
「俺はアルト。ただの、この村の農民だ。あんたは」
アルトが問い返すと、少女は立ち上がり、汚れたドレスの裾を優雅につまんで一礼した。
「私はセリア。ただの没落貴族の娘よ。ねえ、アルト。この作物、私に預けてみない。あなたが土の声を聴くなら、私は金貨の音を聴いてみせる。この村の未来を、私に買わせてちょうだい」
彼女の青い瞳に浮かぶのは、圧倒的な商才と、逆境を覆そうとする強い意志だった。
土の匂いと風の音の中に、新たな時代の扉が開く気配が確かに交じり合っていた。




