第1話「枯れ果てた大地に芽吹く命」
登場人物紹介
◇アルト
辺境の村で暮らす青年。
過酷な環境の中で土と植物を愛し、大地の声を聞いて自在に操る規格外の才能を開花させる。
温厚で争いを好まないが、大切なものを脅かす者には大地の怒りをもって立ち向かう。
◇セリア
没落した貴族の令嬢。
豊富な知識と鋭い商才を持ち、アルトの生み出す作物の価値を正確に見抜く。
彼の右腕として内政や交渉事を一手に引き受け、国造りを支える頼れる相棒でありヒロイン。
◇ゼクス
飢えた同胞を救うために辺境を襲撃した魔族の将。
冷徹な戦士だが義理堅く、アルトに食糧危機を救われてからは、命を懸けて彼を守る最強の武の忠臣となる。
夜明け前の冷たい空気が、薄汚れた麻布の隙間から肌を刺す。
アルトはひび割れた手のひらに息を吹きかけ、使い込まれたクワの柄を握り直した。
空はまだ暗い鉛色に沈み、地平線の向こうからわずかに赤茶けた光が滲み出ている。
足元に広がるのは、雨を何ヶ月も吸い込んでいない、石のように硬く乾いた畑だった。
クワを振り上げ、体重を乗せて土に叩きつける。
硬い手応えとともに、柄から伝わる衝撃が手首から肩へと抜け、鈍い痛みを残す。
土は砕けるというより乾いた音を立てて割れ、細かな土埃が風に乗って舞い上がった。
喉の奥にへばりつく土の味を唾と一緒に飲み込みながら、アルトは休むことなく腕を振り続ける。
額に浮いた汗が頬を伝い、ひび割れた大地に落ちて小さな染みを作り、すぐに乾いて消えていく。
領主からの取り立ては月を追うごとに厳しさを増していた。
麦の一粒、芋の欠片に至るまで、収穫物の大半は年貢として荷馬車に乗せられ、城塞都市へと運ばれていく。
村に残されるのは、家畜の餌にもならないような屑麦や、虫の食った野菜の切れ端ばかりだ。
村人たちの頬はこけ、子供たちの泣き声すら日ごとに弱々しくなっている。
このままでは、冬を越す前に村全体が飢えに呑み込まれる。
アルトは足元で力なくうなだれる、枯れかけの麦の苗に目を落とした。
葉の先は茶色く縮れ、茎は風に吹かれるだけで折れてしまいそうなほど細い。
水をやろうにも、村の井戸は泥水がわずかに底を濡らす程度にまで干上がっている。
膝をつき、土にまみれた手で苗の根本をそっと包み込んだ。
土は冷たく、生命の気配をまったく感じさせない。
だが、アルトが目を閉じ、静かに息を吐き出した時だった。
指先から微かな震えが伝わってきた。
それは風の振動でも、自身の脈の乱れでもない。
もっと深い場所、乾いた土の奥底で、かすかに、しかし確かに打っている鼓動。
アルトは息を詰めた。
土の粒子の隙間を縫うようにして、地中の水分がどこに隠れているのか、あるいはどこで淀んでいるのかが、手にとるようにわかる。
植物の細い根が、乾ききった土の中で水を求めて必死に伸びようとし、力尽きかけている悲鳴のようなものが、彼の皮膚を通して流れ込んできた。
『……水が、欲しいのか』
口に出さずとも、その問いかけは大地へと吸い込まれていった。
次の瞬間、アルトの胸の奥で温かい塊が弾けた。
熱を持った何かが、彼の心臓から両腕へ、そして指先から土の中へと流れ出していく。
それは決壊した川のように勢いを増し、ひび割れた大地を内側から満たしていった。
足の裏から地鳴りのような重い響きが伝わってくる。
地下深くの岩盤の隙間に眠っていた地下水脈が、目に見えない力に引き上げられ、急速に地表へと這い上がってくる感覚。
アルトの指の隙間から、黒々とした湿った土が顔を覗かせた。
水気を含んだ土の豊かな匂いが、乾いた空気を一掃して鼻腔を満たす。
そして、奇跡が起きた。
茶色く縮れていた麦の苗が、まるで早送りを見るかのように緑色を取り戻していく。
細かった茎は目に見えて太さを増し、葉は力強く空に向かって伸びていく。
アルトは驚きで手を離し、後ずさった。
彼が立っている場所を中心に、波紋が広がるようにして畑全体の土が黒く湿り気を帯びていく。
枯れかけていた無数の苗が、一斉に背を伸ばし始めた。
風が吹き抜け、青々とした葉が擦れ合う涼やかな音が畑全体を包み込む。
成長は止まらない。
麦はアルトの腰の高さまで伸び、茎の先端にはふっくらとした穂が顔を出した。
穂は緑色から黄金色へと瞬く間に色を変え、朝の光を浴びてきらきらと輝いている。
隣の畝では、植えたきり芽を出さなかったはずの野菜の種が土を押し上げ、巨大な葉を広げて立派な実を結んでいる。
土の表面から半分顔を出した大根は、子供の腕ほどもある太さに育ち、瑞々しい白い肌を晒していた。
ほんの数回の呼吸の間に、荒れ果てた荒野は、見たこともないほど豊かな豊穣の地へと姿を変えていた。
「……なんだ、これは」
自分の手を見つめる。
泥にまみれた手は、熱を帯びてわずかに赤みを帯びている。
彼自身の命を削ったわけではない。
ただ、彼の中に眠っていた何かが大地とつながり、植物たちが本来持っている生命力を限界まで引き出しただけだ。
風に揺れる黄金の麦畑を見渡し、アルトは胸の奥から湧き上がるような熱い衝動を感じた。
これなら、もう誰も飢えずに済む。
◆ ◆ ◆
村の方から、足を引きずるような足音が近づいてきた。
振り返ると、水を求めて起きてきた村の長老が、杖を落として立ち尽くしている。
窪んだ目が見開き、口は言葉にならない空気をぱくぱくと呑み込んでいた。
長老のしわがれた頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
アルトは黄金色に実った麦の穂を一つ折り取り、手のひらで揉んで殻を吹き飛ばした。
中から現れたのは、真珠のようにふっくらとした大きな麦粒だった。
それを一粒口に運ぶ。
噛み締めた瞬間、濃厚な甘みと大地そのものの豊かな風味が口いっぱいに広がった。
これまで食べたどんな麦よりも力強く、命に満ちた味がした。




