第9問 生きる事は食べる事か
学庭に蓮池が在る。
その周縁に、白亜のガゼボが、誰からも忘れられたように、ひっそりと建っている。
昼休みになると、空野は其処に行き、弁当を食べる。
平素は空野独りだが、今日は藤村も居る。
藤村は、空野より先に食べ終えてしまったので、空野が食べるのを眺めている。
空野は食べるのが遅い。
まるで食べる事に躊躇いが有るようだ。
その唇は、雨を帯びた花海棠のようで、あまり開かない。
しめやかに箸が運ぶ、一口の量も少ない。
空野は黙禱するように粛々と食べる。
白歯で咀嚼頻る、呑み下し難いものを。
「ごめんなさい、お待たせして」
食事を終えて漸く、空野は藤村を見た。
食事中はずっと心焉に在らずだった、空野は今、藤村の処に居る。
藤村はほっとした。
藤村は尋ねた。
「…辛いか、食べるのは」
「…ええ。…食べる事は、己の命を生かす為に、他の命を死なす事だもの。…食べ殺された方は、辛いとさえ思えない」
「空野にとって、食べる事は、殺す事か」
「……そう。どうして良いか、分からないの」
「…」
「『我思う、故に我在り』が真実なら、我の有無を定めるのは、その内側。外側からは、判らない。なら、私の食べた命にも、我が在ったかもしれない。真実が判るのは、神さまと答え合わせをする時。その時、私は独りで、神さまの前に立つ。もし私の食べた命に我が在ったとしたら………。私は、どうしたら良いの」
「…食べなければ、空野が死ぬ」
「トロッコ問題ね。客観的な正しさを問う倫理に於いては、絶対に全てを救うべき。主観的な正しさを問う道徳に於いては、相対的に多くを救うべき。法に於いては、何もしない方が悪くない事になるかしら。…もし多くを救うべきなら、私が死ぬべき。私が生かす命より、私が死なす命の方が、恐らく多いから」
「…正しくないと思いながらも、空野が生きることを選んでいるのは、何故だ」
「……物心付いた頃、食べる事は殺す事と悟って、食べられなくなった。そうしたら、母が虐待を疑われてしまったの。母の所為ではなかったのに。悪いのは、生きる覚悟の儘ならない私なのに。食べないのは私の自由意志による選択だと、誰にも信じて貰えなかった。私は、人間社会に母を人質に取られているから、死ねないの」
「…」
藤村はただ、空野が苦しむ様を見詰めるしか出来ない。
「…重たい話をしてしまったわね。ごめんなさい。藤村くん、もう、引いて良いのよ」
「空野が俺に引かなかったんだ。俺が引いたら負けになる」
「…そう」
「…空野、別の問い方をしよう。きっと別の答えが有る」
「……そんな風に云って呉れたのは、藤村くんが初めてよ………。ありがとう」
空野は目を潤ませて微笑んだ。
藤村は目を醒ますと、顔を歪めた。
空野が居ないから。
空白が満たされない。
藤村は餓えて止まない。
空野が足りない。
世界を解き明かして遣りたい。
解く為に生きたい。
生きたいなら食べねば。
藤村は、朝食を摂る為に起き出した。




