第8問 何故悪は在るのか
ガァッ! ガァッ!
烏が鳴いている。
早朝から騒がしい。
藤村は眉を嚬めた。
藤村は並木道を歩いていた。
部活の朝練に行く処だった。
夏日を浴びた、葉の緑は濃い。
夏の光が眩い程、葉の影は暗む。
ふと、黒い影が過る。
烏だ。
烏はバサッバサッと羽撃きながら、何かに向かってゆく。
それは人だった。
セーラー服を着た女学生だった。
小柄で細身の女学生が、レッサーパンダが威嚇する時のように、万歳のポーズを取っていた。
セーラー服は青藍で、セーラー帽は氷白。
氷白の制帽から、清艶な黒髪が、滝のように流れ落ちる。腰まで。
それで察した。
空野だ。
空野が烏に襲われている。
藤村はぎょっとして、空野に駆け寄った。
革靴が石畳を鳴らす。
烏は新手を警戒するように、バサバサッと遠離る。
空野が藤村を見た。目を丸くする。
空野は、端ない振舞を藤村に見られた事を恥じらうように、両腕をそっと下ろした。
夏服の半袖からすらりと伸びる、氷肌玉骨の腕を目の当たりにして、藤村はぞっとした。
空野はぎこちなく微笑む。
「藤村くん…」
その吐息は繊弱やかに喉を震わせて、藤村の鼓膜に達した。
「何故、逃げない?」
「猫さんが居るから」
空野の後ろの樹の根元には、猫が居た。
薄汚れた灰白の猫。
猫は動かない。
否、動けないのかも知れない。
もう死んでいるかも知れないし、まだ生きているかも知れない。
真実は調べなければ確かめられない。
しかし、藤村の天秤は、猫の生死を確認するより、空野の安全を確保する方に、傾いた。
「逃げるぞ」
「でも…」
空野は猫を見た。
猫は動かない。
「…藤村くん、お願い、大人を呼んで来て。私は此処に居ないと…」
烏が此方をジッと見ている。
「駄目だ」
藤村は空野の手を攫んで、力尽くでその場から引き剥がした。
空野の手は桜桃のようだった。
桜桃を口に含むと、甘美な果肉越しに硬い核を感じるように、空野の小さな手を握ると、柔肌越しに骨を感じた。
藤村は空野を連れて走り出した。
カア、カア、カア!
烏が鳴いている。
猫は死んだ。
白日の礼拝堂に鍵を掛ける。
薔薇窓の幾何学模様は唯正しい。
藤村は目を瞑り、耳を澄ませる。
空野が風琴でレクイエムを弾いている。
無言の音色は涙のようだ。
空野の音を聴き届ける為に心を伽藍堂にしたいのに、藤村の意識は煩悩に逸れてゆく。
藤村が力尽くで空野を引き剥がしたあの時、空野はどんな目をしていたのだろう。
空野には空野の心が存る。
愛が存る。
善が存る。
目的が存る。
意志が存る。
自由が存る。
選択が存る。
たとえ藤村が空野を守りたかったとしても、空野に関わる事なら、空野と決めるべきだった。
出来なかった。
藤村は空野と対話をするべきだった。
でも、しなかった。
藤村は空野の同意を得るべきだった。
でも、得なかった。
藤村は空野の尊厳を蔑ろにした。
たとえ空野の尊厳が、空野の内側に存る故に、外側に居る誰からも侵されないとしても、藤村はそれを犯してはならなかったし、冒したくもなかった。
それは悪だった。
それは罪だった。
それは苦しみだった。
それでも、藤村は空野を失う不安に耐えられなかった。
レクイエムが終わる。
藤村は目を開けた。
夜の帷が下りていた。
藤村は川の畔に立ち尽くしていた。
水と緑のにおいが、生温い夜気を漂う。
藤村はぽつりと零す。
「何故、悪は在る…」
夜の帷の向こうから、空野の澄み透る聲が返った。
「…愛を、有らせるため」
藤村はどきりとした。
「どういう事だ?」
「愛は伝えるもの。橋や扉のようなもの。伝える為には、隔たりが要る。その隔たりこそ、悪と呼ばれるもの」
「神は愛を成す為に悪を為すというのか。信じられん。何故…」
「神さまの愛は、善悪を超えるもの。無償の愛は、目的の愛。目的は愛だけ。他は違う」
「ならば何故、悪が在る…」
「神さまが唯一の善だったから。愛を有らせるには、神ではない、唯一ではない、善ではないものが要った。愛という結合が有る為には、分離も要る。扉が開くものでも閉ざすものでもあるように、愛は合すものでも離すものでもある。故に私たちは分かたれている」
「何故、そのままでいなかった…」
「神さまが、善より、愛を望むから。神さまは愛に成るの」
「………」
暗闇に、螢が飛び交い始める。
螢は愛を伝えようと光る。
短夜の静寂に瞬く、螢火の諷。
螢の光は、間に闇が在るからこそ伝わる。
もし光のみだったら、此処に在る風景も無かっただろう。
「…空野、俺は何に成ればいい?」
「藤村くん」
「…?」
「藤村くんは、藤村くん」
「禅問答かよ…」
藤村はくしゃりと笑った。
川の向こうで、空野も微笑んだ気がした。
明烏が鳴いている。
藤村は目を覚ました。




