第27問 緑の黒髪が美しいのは何故か
山粧う秋になっても、空野の緑の黒髪は常若に瑞々しかった。
しかし、空野は雛人形などではなく、生身の少女だった。
藤村がそれを思い知ったのは、修学旅行の夜、空野が洗い髪で人前に現れて、教師に詰責される処を目撃した時だった。
修学旅行の入浴時間は短い。
長髪の女生は髪を乾かしきれない程。
短髪の教師には、それが分からなかったらしい。
彼はその問題について、考えた事もないようだった。
彼がその問題で、困った事がないからだろうか。
空野は懶げに呟いた。
「もういっそ、バッサリ切ってしまおうかなぁ…」
おい待て早まるな!
危うく藤村は叫ぶ処だった。
空野は旅館の和室の片隅に居た。
畳の上、座鏡の前で、正座していた。
空野は浴衣を着て、生白い繊手で艶々しい黒髪に椿油を馴染ませながら、それを黄楊の小櫛で梳いていた。
「何故」
藤村は鏡の中から魔物のように尋ねた。
「この髪のせいで、先生方を困らせてしまったから」
「困ると悪いか」
「悪い…と思う」
「何故」
「…元々、この髪は、人を困らせないように伸ばしたものなの」
其奴は男か。
藤村はムッとした。
「その人は、誰」
「私を見る人」
特定の人ではなかった。
藤村はホッとした。
「何故、空野の髪が短いと、見る人が困る」
「私が、男か女か何者か、一目で見て取れないと、人は驚いて怯えるの。可哀相よ」
藤村は「可哀相」という言葉遣いにカチンと来た。
「可哀相」というのは空野の感情であって、対象の状態ではない。
「人から除かれたくないのは、空野の方だろう」
「…うん。髪が長いと、私は安心する。それが空野詩織の特徴として機能するから。それ以上の自己開示を求められずに済むの」
「空野が隠したいのは、どんな自己」
「…私の性別。物理的には女性だけど、心理的には理性、かもしれない」
「…理性は性別の範疇に入るか」
「ジェンダーは社会的なものだから、理性が社会的なものならば、理性も性別の範疇に入るのではないかしら」
「そう、か…」
「…私は、藤村くんに、性別を偽っていた事になる。ごめんなさい…」
「空野は、女性を演じる理性だったんだな」
「はい」
「もし俺が、男性を演じる理性だったら、如何する」
「…驚く」
「怯えたか」
「いいえ」
「俺も驚いただけだ」
「…うん。ありがとう」
「性別はさておき、空野は髪を如何したい」
「私は……長い方が落ち着く」
「それなら、長いのが良いだろう」
「うん。ありがとう、藤村くん」
空野が笑顔を取り戻して、藤村は安堵した。
鏡の裏で、藤村は反省する。
藤村は、空野の女らしさを認める事で、受動的に己の男らしさを確かめていた。
藤村には、己が男らしくある為に、空野に女らしくある事を期待していた節がある。
男として認められたいという己の慾を満たす為に、女に相応しい振る舞いを押し付けるのは、如何なものか。
打って変わって、空野は男女の夏冬の制服について、朗々と話す。
「夏にスカートは涼しいけれど、冬には寒すぎるの。冬は女子でもスラックスを穿きたい。温いもの」
「ああ」
「男子も夏にはスカートを穿くのは如何かしら。涼しくて良いと思うの」
「確かに、合理的だが、いやしかし…。夏でもスラックスなのが当然だったから、特に暑いと思った事がないな。…俺は正直、スカートを穿くのに抵抗がある」
「藤村くんは、藤村くんの自分らしさを、男らしさと思われる処も含めて、表現して良いの。だから、そこは気にしなくて良い。それとも、私も、スラックスを穿きたいの、気にするべきかしら」
「…そうだな。俺もそこは気にしなくて良いのか…」
藤村はゆるゆると笑った。
藤村は目を覚ました。
藤村は細胞内共生説と紅葉について考える。
細胞内共生説とは、人類を含む真核生物が、複数の生物が共生して融合して進化する事によって、発生した、という説である。
その根拠として例示されるのが、葉緑体である。
空野の緑の黒髪は、葉緑体のようだった。
それは、空野が他者と共生してきた証だった。
一方で、紅葉および落葉があるのは、秋になり、気温が下がると、光合成の効率が落ちるからだ。
落葉広葉樹は、冬を越す為に、エネルギーを浪費して葉を維持するより、そのエネルギーを節約して幹枝に回収する事を択ぶ。
また、光合成に使い切れず余った光のエネルギーは、活性酸素を生じる。
その活性酸素は、細胞および葉緑体を破壊する毒になる。
その毒を防ぐ為にも、元の葉緑素(クロロフィル)は分解される。
黄葉でも褐葉でも紅葉でも。
黄葉とは、葉からクロロフィルの緑が消えて、カロテノイドの黄色が残る事。たとえば、公孫樹。
褐葉とは、葉からクロロフィルの緑が消え、カロテノイドの黄色が残ったところに、フロバフェンの褐色が生じる事。たとえば、櫟。
紅葉とは、葉からクロロフィルの緑が消え、カロテノイドの黄色が残ったところに、活性酸素の毒に対する薬として、アントシアニンの赤が生じる事。たとえば、椛。
色々な木の葉がある。
もし、空野が落葉するように断髪していれば、新たな春を迎えられたのだろうか。
もしくは、宇宙樹は、空野詩織という一葉から、エネルギーを幹枝に饋還させたからこそ、生き存えているのだろうか。
ただ、空野が緑の黒髪と生きた事を、藤村は覚えている。




