第22問 喪ったものと遺ったものを数え直せるか
藤村はдачаに居た。
дачаとは、「別荘」、「避暑地」、「田舎の休養地」、「自由を剥奪された場所」を指す。
藤村は、外が暑すぎる故に自由に出られず、内で休まざるを得ない、村荘に居た。
藤村は喉が渇いたので、炊事場に赴いた。
戸を開けると、ジャムのように甘ったるい匂いが、藤村の鼻の奥を擽った。
空野が「Scarborough Fair」をハミングしながら、琺瑯鍋で無花果を煮ていた。
そのハミングは、オルゴールが奏でる子守唄のようだった。
空野は、前髪を貌に懸からないようにカチューシャで上げて、後髪を三つ編みで一つ結びにして、背に垂らしていた。
藤村には、空野がラプンツェルのように想われた。
空野は、モダンな割烹着を、エプロンドレスのように身に付けていた。
藤村はノスタルジアを憶えた。
「空野」
と呼び掛けると、
「藤村くん」
と、空野は鍋から顔を上げて、藤村に微笑んだ。
その聲は、ホワッとしていた。
その貌は、海棠の睡り未だ足らざる如く、ポヤポヤしていた。
藤村は、ちらっと現場を観察した。
藤村は推測した。
空野は、無花果のコンポートを作るのに、ワインを使った。
ワインに熱を加えると、アルコールが飛ぶ。
空野は、冷房をつける為に、炊事場を閉め切っていた。
加えて、背が低い空野は、高い所にあるスイッチに手が届かず、換気扇を回せなかった。
すると、空間は密閉され、気化アルコールが充満する。
うら若い空野が、それを吸うと、如何なるか。
「空野は、酔っているのか」
「あら、確かにお酒は使ったけれど…。飲んでいないのに、酔うものかしら」
空野は紅潮した頬に繊手を添えて、嫋やかに小首を傾げた。
「空野は酒に弱いらしい。ところで、手は止められそうか。水でも飲んで寛ぐといい」
「うふふ…。藤村くん、優しい! 好き!」
酔った空野は天真爛漫で、ストレートに告げた。
学園では、静淑な文学少女なのに。
「(3.1415926535…)」
藤村は無言で円周率を唱えながら、換気扇のスイッチを入れた。
空野は髪と服を寛げた。
空野はカチューシャを取り、するりと髪を解いた。
黒髪が垂水のように流れ落ちる。
空野は白い割烹着を脱ぐと、黒いキャミソールワンピースを現した。
そのワンピースは、キャミソールにもかかわらず、その黒とミニマルデザインとロング丈によって、氷肌玉骨の空野を、清麗に装った。
藤村は空野をソファに座らせた。
そのソファはJapandi(北欧和風)で、hygge(安らかで楽しい雰囲気)を醸していた。
藤村は水を取りに行こうと空野に背を向けた。
その背に向かって、空野は呼び掛けた。
「藤村くん。藤村くんを、背からハグしてもいい?」
思わず藤村は振り返った。
空野は微笑み、雪肌の腕を広げていた。
藤村は当惑した。
しかし、空野が首に糸杉の十字架を掛けているのが、目に付いた。
その十字架は、空野の胸の真ん中にあった。
酩酊者とは、性的な同意ができない。
「No」(否)
と藤村は宣言した。
「All right」(畏まりました)
と空野はさらりと応え、腕を下ろした。
それから、しょぼんと俯いた。
落ちた視線の先には、ペディキュアの藤紫があった。
「何故」
と藤村は尋ねた。
「『Поцелуй сначала землю』」(接吻を始めに地へ)
ドストエフスキーの『罪と罰』を引いて、空野は藤村を仰いだ。
真澄の鏡の目と目が合う。
「藤村くんの背は、земля́(地)でしょう?」
藤村は目を醒ました。
空野はパンドラだった。
藤村に、希望として無知を遺して逝った。
藤村は、喪ったものと遺ったものを数え直す。
喪ったもの。もう無いもの。藤村の外に在る、空野の肉体と、触れ合う事。
遺ったもの。まだ有るもの。藤村の内に存る、空野の精神と、見交わす夢。
小学生の藤村は、空野と逢う事を知らなかった。
中学生の藤村が、空野と別れる事を知らなかったように。
高校生の藤村は、知らない。
大学生の藤村が、空野のような愛らしいものを、知るかもしれない。
それは、夢で、希望で、勇気だった。
「Scarborough Fair」の無理難題さえ解けるような。
藤村は、空野が仕込んだ無花果のコンポートを、夢で食べ損ねた事を、憾んだ。
食欲がマイナスで、味覚もロストしたから、藤村は食事を疎かにしていた。
だから、生殺しの憂き目に遭うのだろうか。
藤村は無花果を買いに出た。
無花果を買ったら、空野にお供えして、一緒に食べよう。




