藤村は戦争の話を聞かされるのが厭だった。
傾聴はケアだ。
ケアは感情労働だ。
労働を無償で強制するのは、奴隷制度だ。
それが教育と称されていた。
厳潔たる講堂に、老人の嗄れ声が粛々と響く。
藤村は聞かなければならない。
筋肉が緊張し、神経が痲痹し、顔面が硬直しても。
或る生徒が過呼吸に陥り、教師に講堂を退出させられるのが見えても。
この教育が、平和の為、未来の為、子供の為になる、と信じられていたから。
藤村はそのパラダイムに添ってレポートを書く。
そうしなければリライトを求められる事を、藤村は小学生の時に学習した。
その是非を判断する天秤を、藤村は形成しなかった。
生徒の、成績が優秀で、素行が良好で、志望校が高名なら、教師は放任しやすい。
藤村には如何でもよかった。
過呼吸に喘いだのが、空野でさえなければ。
「失礼します」
「………どうぞ」
保健室の戸を開けると、空野が養護教諭と机を挟んで向かい合って座っているのが見えた。
空野はしくしくと泣いていた。
藤村は立ち竦んだ。
藤村を見上げた空野の円らな目は、雪兎の目の南天の実のように赤く、充血していた。
藤村は言葉を失った。
「何用かな」
と、養護教諭が藤村に尋ねた。
「…いえ、空野さんの具合を伺いに……」
「君は、保健委員でないね」
「…はい」
「まあ、お入んなさい」
「お邪魔します…」
藤村は入室すると、戸を閉めた。
養護教諭に促されて、藤村も席に着いた。
空野が瞬く度に、泣き濡れた睫が、添水のように跳ね返る。
雨涙が白桃の頰を伝う。
空野は垂泣を、氷嚢を包裹する潔白な手巾で、そっと吸い取り続けた。
呼吸はもう落ち着いていたが、まだ落涙が止まないようだった。
何故、そんなに泣けるのだろう。
養護教諭が、涙河の空野に助け船を出した。
「空野さん、君が泣く訳を、私が彼に話して良いかな」
空野はこくんと頷いた。
「彼女はね、物語を聴き遂げられなかった事が、済まないそうだよ」
藤村は、空野が何を気に病むのか、分からなかった。
たとえば、戦争が病気なら、物語はワクチンで、過呼吸は副反応だ。
ワクチンは打ちたくても打てないケースがある。
ならば別のルートで平和に至れば良い。
そもそも、藤村は物語を聞き果せている。
藤村はあっさり言った。
「俺で良ければ、続きを教えるが」
「え…」
藤村の申し出に、空野は曇り声を漏らした。
藤村はさらりと続けた。
「先生、空野が危なくなったら、ドクターストップを掛けて頂けますか」
「養護教諭はドクターではないが、診て看るよ」
「………」
空野は深呼吸をして、覚悟を決めた。
「筬越先生、藤村くん、宜しくお願い致します」
空野は姿勢を正すと、静々と頭を下げた。
斯くして、図らずも、藤村は戦争を語り継いだ。
空野は苦しみ悲しみ泣いた。
過呼吸の再発が危ぶまれる程に。
血腥い惨禍を、空野の目は純化して、透明な涙にした。
泣いた処で何も守れないのに。
空野は泣く。
空野は莫迦だ。
その涙は奇麗でしかなかった。
藤村が語り終えると、空野は深々と御辞儀をした。
「有難う御座いました」
そうして、空野は泣き止んだ。
藤村の胸に、不思議な灯が燈った。
外に出ると、蝉時雨が降り注いだ。
空野は泣き疲れてウトウトしていた。
「空野は、何故、其処まで……」
藤村の口から疑問が零れた。
空野は向日葵のように咲まう。
「聴いている時だけは、私が私でなくて良いから」
空野の透き徹る聲が、蝉時雨に儚く消えた。
藤村は目を覚ますと、枕元の本に手を伸ばした。
知りたくなったら調べ、死にたくなったら眠る。
夜を明かして日を暮らしても、知りたい平和を知れないでいる。