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第21問 莫迦でも平和を築けるか

 藤村(ふじむら)は戦争(せんそう)の話(はなし)を聞(き)かされるのが厭(いや)だった。

 傾聴(けいちょう)はケアだ。

 ケアは感情労働(かんじょうろうどう)だ。

 労働(ろうどう)を無償(むしょう)で強制(きょうせい)するのは、奴隷制度(どれいせいど)だ。

 それが教育(きょういく)と称(しょう)されていた。


 厳潔(げんけつ)たる講堂(こうどう)に、老人(ろうじん)の嗄(か)れ声(ごえ)が粛々(しゅくしゅく)と響(ひび)く。

 藤村(ふじむら)は聞(き)かなければならない。

 筋肉(きんにく)が緊張(きんちょう)し、神経(しんけい)が痲痹(まひ)し、顔面(がんめん)が硬直(こうちょく)しても。

 或(あ)る生徒(せいと)が過呼吸(かこきゅう)に陥(おちい)り、教師(きょうし)に講堂(こうどう)を退出(たいしゅつ)させられるのが見(み)えても。

 この教育(きょういく)が、平和(へいわ)の為(ため)、未来(みらい)の為(ため)、子供(こども)の為(ため)になる、と信(しん)じられていたから。

 藤村(ふじむら)はそのパラダイムに添(そ)ってレポートを書(か)く。

 そうしなければリライトを求(もと)められる事(こと)を、藤村(ふじむら)は小学生(しょうがくせい)の時(とき)に学習(がくしゅう)した。

 その是非(ぜひ)を判断(はんだん)する天秤(てんびん)を、藤村(ふじむら)は形成(けいせい)しなかった。

 生徒(せいと)の、成績(せいせき)が優秀(ゆうしゅう)で、素行(そこう)が良好(りょうこう)で、志望校(しぼうこう)が高名(こうめい)なら、教師(きょうし)は放任(ほうにん)しやすい。

 藤村(ふじむら)には如何(どう)でもよかった。

 過呼吸(かこきゅう)に喘(あえ)いだのが、空野(そらの)でさえなければ。


「失礼(しつれい)します」

「………どうぞ」

 保健室(ほけんしつ)の戸(と)を開(あ)けると、空野(そらの)が養護教諭(ようごきょうゆ)と机(つくえ)を挟(はさ)んで向(む)かい合(あ)って座(すわ)っているのが見(み)えた。

 空野(そらの)はしくしくと泣(な)いていた。

 藤村(ふじむら)は立(た)ち竦(すく)んだ。

 藤村(ふじむら)を見上(みあ)げた空野(そらの)の円(つぶ)らな目(め)は、雪兎(ゆきうさぎ)の目(め)の南天(なんてん)の実(み)のように赤(あか)く、充血(じゅうけつ)していた。

 藤村(ふじむら)は言葉(ことば)を失(うしな)った。

「何用(なによう)かな」

と、養護教諭(ようごきょうゆ)が藤村(ふじむら)に尋(たず)ねた。

「…いえ、空野(そらの)さんの具合(ぐあい)を伺(うかが)いに……」

「君(きみ)は、保健委員(ほけんいいん)でないね」

「…はい」

「まあ、お入(はい)んなさい」

「お邪魔(じゃま)します…」

 藤村(ふじむら)は入室(にゅうしつ)すると、戸(と)を閉(し)めた。


 養護教諭(ようごきょうゆ)に促(うなが)されて、藤村(ふじむら)も席(せき)に着(つ)いた。

 空野(そらの)が瞬(まばた)く度(たび)に、泣(な)き濡(ぬ)れた睫(まつげ)が、添水(そうず)のように跳(は)ね返(かえ)る。

 雨涙(うるい)が白桃(はくとう)の頰(ほほ)を伝(つた)う。

 空野(そらの)は垂泣(すいきゅう)を、氷嚢(ひょうのう)を包裹(ほうか)する潔白(けっぱく)な手巾(しゅきん)で、そっと吸(す)い取(と)り続(つづ)けた。

 呼吸(こきゅう)はもう落(お)ち着(つ)いていたが、まだ落涙(らくるい)が止(や)まないようだった。

 何故(なぜ)、そんなに泣(な)けるのだろう。


 養護教諭(ようごきょうゆ)が、涙河(るいか)の空野(そらの)に助(たす)け船(ぶね)を出(だ)した。

「空野(そらの)さん、君(きみ)が泣(な)く訳(わけ)を、私(わたし)が彼(かれ)に話(はな)して良(い)いかな」

 空野(そらの)はこくんと頷(うなず)いた。

「彼女(かのじょ)はね、物語(ものがたり)を聴(き)き遂(と)げられなかった事(こと)が、済(す)まないそうだよ」

 藤村(ふじむら)は、空野(そらの)が何(なに)を気(き)に病(や)むのか、分(わ)からなかった。

 たとえば、戦争(せんそう)が病気(びょうき)なら、物語(ものがたり)はワクチンで、過呼吸(かこきゅう)は副反応(ふくはんのう)だ。

 ワクチンは打(う)ちたくても打(う)てないケースがある。

 ならば別(べつ)のルートで平和(へいわ)に至(いた)れば良(よ)い。

 そもそも、藤村(ふじむら)は物語(ものがたり)を聞(き)き果(おお)せている。

 藤村(ふじむら)はあっさり言(い)った。

「俺(おれ)で良(よ)ければ、続(つづ)きを教(おし)えるが」

「え…」

 藤村(ふじむら)の申(もう)し出(で)に、空野(そらの)は曇(くぐも)り声(ごえ)を漏(も)らした。

 藤村(ふじむら)はさらりと続(つづ)けた。

「先生(せんせい)、空野(そらの)が危(あぶ)なくなったら、ドクターストップを掛(か)けて頂(いただ)けますか」

「養護教諭(ようごきょうゆ)はドクターではないが、診(み)て看(み)るよ」

「………」

 空野(そらの)は深呼吸(しんこきゅう)をして、覚悟(かくご)を決(き)めた。

「筬越(おさこし)先生(せんせい)、藤村(ふじむら)くん、宜(よろ)しくお願(ねが)い致(いた)します」

 空野(そらの)は姿勢(しせい)を正(ただ)すと、静々(しずしず)と頭(あたま)を下(さ)げた。


 斯(か)くして、図(はか)らずも、藤村(ふじむら)は戦争(せんそう)を語(かた)り継(つ)いだ。

 空野(そらの)は苦(くる)しみ悲(かな)しみ泣(な)いた。

 過呼吸(かこきゅう)の再発(さいはつ)が危(あや)ぶまれる程(ほど)に。

 血腥(ちなまぐさ)い惨禍(さんか)を、空野(そらの)の目(め)は純化(じゅんか)して、透明(とうめい)な涙(なみだ)にした。

 泣(な)いた処(ところ)で何(なに)も守(まも)れないのに。

 空野(そらの)は泣(な)く。

 空野(そらの)は莫迦(ばか)だ。

 その涙(なみだ)は奇麗(きれい)でしかなかった。

 藤村(ふじむら)が語(かた)り終(お)えると、空野(そらの)は深々(ふかぶか)と御辞儀(おじぎ)をした。

「有難(ありがと)う御座(ござ)いました」

 そうして、空野(そらの)は泣(な)き止(や)んだ。

 藤村(ふじむら)の胸(むね)に、不思議(ふしぎ)な灯(ひ)が燈(とも)った。


 外(そと)に出(で)ると、蝉時雨(せみしぐれ)が降(ふ)り注(そそ)いだ。

 空野(そらの)は泣(な)き疲(つか)れてウトウトしていた。

「空野(そらの)は、何故(なぜ)、其処(そこ)まで……」

 藤村(ふじむら)の口(くち)から疑問(ぎもん)が零(こぼ)れた。

 空野(そらの)は向日葵(ひまわり)のように咲(え)まう。

「聴(き)いている時(とき)だけは、私(わたし)が私(わたし)でなくて良(い)いから」

 空野(そらの)の透(す)き徹(とお)る聲(こえ)が、蝉時雨(せみしぐれ)に儚(はかな)く消(き)えた。


 藤村(ふじむら)は目(め)を覚(さ)ますと、枕元(まくらもと)の本(ほん)に手(て)を伸(の)ばした。

 知(し)りたくなったら調(しら)べ、死(し)にたくなったら眠(ねむ)る。

 夜(よる)を明(あ)かして日(ひ)を暮(く)らしても、知(し)りたい平和(へいわ)を知(し)れないでいる。

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