第19問 地震の何が堪え難いか
藤村は山を登っていた。
如何しても、確かめたい事が有ったから。
ところが、地震が起きた。
藤村は坂を転げ落ちていった。
気が付くと、藤村は谷深に這い蹲っていた。
目は開いているはずなのに、底無しの闇しか見えない。
不安の渦が沸き上がり、認知資源を摩り減らす。
嗚呼、落ちてしまったのか。
また、あの山を登り直すのか。
何時になったら、登れるのか。
何時まで、登ればいい。
何時までも、登り続けなければならない?
切りが無い。
曖昧なままでただ在る事は、堪え難い苦痛だった。
すると、赤星が見えた。
それは蠍の目玉のようだった。
それは火球のように藤村に迫りながら、双つに分かれた。
赤く熾った炭火の双眸。
それを掲げるのは、四つ足の獣らしい。
冥闇に溶け込む黒毛の、馬のように大きな山犬。
それは跫もなく藤村に忍び寄ると、くんくんと藤村のにおいを嗅いだ。
湿った鼻先が藤村に触れた。
生きている、と藤村は感じた。
このまま、藤村は山犬に食い殺されるのか。
これで楽になれる、と思った。
本当にそれでいいのか。
まだあの山を登り抜いていないのに、とも。
されど、山犬は、狼煙を上げるように、遠吠えをした。
藤村の魂が、びりびりと震えた。
山犬は、藤村の背中を、前足でぽんと小突いた。
修験装束越しでも伝わった。
山犬の毛並みがさらさらで、肉球がぷにぷにであることが。
さてはこの犬、野生ではないな。
藤村が目を凝らすと、赤目の上に、黒毛に白抜きの麿眉が見えた。
空野の飼い犬である黒柴だ、と藤村は直感した。
彼は唸った。
「Reiten Sie(乗りたまえ)!」
犬の鳴き声と、独逸語のスペルと、日本語の意味が、三重に聞こえた。
彼は伏せをして、藤村を待った。
藤村は蹣跚めきながらも立ち上がると、裸馬に乗るように、彼の背に跨った。
彼は颯然と駆け出した。
幾山河を越えただろうか。
「末黒!」
澄み透る聲に名を呼ばれて、彼は高らかに答えた。
「Frauchen(姉様)!」
そう呼ばれたのは、やはり空野だった。
空野は白装束を身につけて、墓石を背に佇んでいた。
空野は、さらに呼び掛けた。
「Hier(此方へ)!」
末黒と呼ばれた犬が空野の前に着くと、
「Fein(よし)!」
と空野は褒めた。次に、
「Platz(伏せ)!」
と空野が指揮すると、末黒は伏せをした。
「Fein(よし)! Bleib(待て)!」
そして、空野は藤村に尋ねた。
「藤村くん、下りられそう?」
「あ…」
藤村は、日本語の空野より快活に見える独逸語の空野に戸惑っていた。
「…ああ」
如何にか答えて、末黒から下りた。
「In Ordnung(よろしい)!」
そのコマンドで、末黒は伏せのポーズを解除した。
「末黒、Brav(お利口さん)! Danke(ありがとう)!」
藤村にもDanke(ありがとう)なら分かったので、藤村も末黒に、
「…Danke(ありがとう)、末黒」
と言った。
末黒はスンと鼻息を吐いた。
そして、末黒は空野を守るように、藤村を見張れる所で横たわった。
「さて、如何したの」
空野が藤村に尋ねた。
「空野の、妹さんを見掛けた」
「まあ、歌織に。歌織は、元気かしら」
「そこの弟くんを連れて、散歩が出来るくらいには」
空野は、飼い犬の末黒を、ペットというよりコンパニオンアニマルとして弟扱いしていたので、藤村もそれに倣った。
「そう…。良かった…」
空野は天真爛漫に笑った。一方で、
「俺は良くなかった!」
と、藤村の不満が爆発した。
「俺は彼らを妬んでしまった。彼らが空野の家族だから。空野の葬儀に出られて、墓参りにも行ける。俺には出来ないのに。空野の家族でないだけで、俺には何も知らされないまま、空野は死んでしまっていた!」
藤村は早口に捲し立てた。
「…ごめんなさい、藤村くん」
「謝るな。俺はただ、苦しくて荒れているだけだ」
「藤村くん……」
「嗚呼! 何か云いたいのに、其れが云えない…。もどかしい…!!」
「うん」
藤村はキリキリしているのに、空野はニコニコしてきた。
藤村は仏頂面になった。
「空野。何故、笑っている」
「ごめんなさい。藤村くんが、藤村くん自身の事を話してくれるのが、嬉しくて」
藤村は唖然とした。
「藤村くん。話してくれて、ありがとう」
空野の微笑みは、ダイアモンドのように奇麗だった。
藤村は目を覚ますと、溜息を吐いた。
藤村が空野に心を開けるのは、空野が死んでいて、不変で安定しているからかもしれない。
藤村が空野を傷つける事も、空野によって傷つけられる事もない。
安全で安心できる愛着対象として、藤村が空野を好いているとしたら、それは此の世に生きた空野ではない。
それは遺灰ダイアモンドだ。
愛したいのに愛せない此の世を、どうか愛せますように。
藤村は、苦しみながら生きて、祈った。




