↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/29

第19問 地震の何が堪え難いか

 藤村(ふじむら)は山(やま)を登(のぼ)っていた。

 如何(どう)しても、確(たし)かめたい事(こと)が有(あ)ったから。

 ところが、地震(ない)が起(お)きた。

 藤村(ふじむら)は坂(さか)を転(ころ)げ落(お)ちていった。


 気(き)が付(つ)くと、藤村(ふじむら)は谷深(たにふけ)に這(は)い蹲(つくば)っていた。

 目(め)は開(あ)いているはずなのに、底無(そこな)しの闇(やみ)しか見(み)えない。

 不安(ふあん)の渦(うず)が沸(わ)き上(あ)がり、認知資源(にんちしげん)を摩(す)り減(へ)らす。

 嗚呼(ああ)、落(お)ちてしまったのか。

 また、あの山(やま)を登(のぼ)り直(なお)すのか。

 何時(いつ)になったら、登(のぼ)れるのか。

 何時(いつ)まで、登(のぼ)ればいい。

 何時(いつ)までも、登(のぼ)り続(つづ)けなければならない?

 切(き)りが無(な)い。

 曖昧(あいまい)なままでただ在(あ)る事(こと)は、堪(た)え難(がた)い苦痛(くつう)だった。


 すると、赤星(あかぼし)が見(み)えた。

 それは蠍(さそり)の目玉(めだま)のようだった。

 それは火球(かきゅう)のように藤村(ふじむら)に迫(せま)りながら、双(ふた)つに分(わ)かれた。

 赤(あか)く熾(おこ)った炭火(すみび)の双眸(そうぼう)。

 それを掲(かか)げるのは、四(よ)つ足(あし)の獣(けもの)らしい。

 冥闇(めいあん)に溶(と)け込(こ)む黒毛(くろげ)の、馬(うま)のように大(おお)きな山犬(やまいぬ)。

 それは跫(あしおと)もなく藤村(ふじむら)に忍(しの)び寄(よ)ると、くんくんと藤村(ふじむら)のにおいを嗅(か)いだ。

 湿(しめ)った鼻先(はなさき)が藤村(ふじむら)に触(ふ)れた。

 生(い)きている、と藤村(ふじむら)は感(かん)じた。

 このまま、藤村(ふじむら)は山犬(やまいぬ)に食(く)い殺(ころ)されるのか。

 これで楽(らく)になれる、と思(おも)った。

 本当(ほんとう)にそれでいいのか。

 まだあの山(やま)を登(のぼ)り抜(ぬ)いていないのに、とも。


 されど、山犬(やまいぬ)は、狼煙(のろし)を上(あ)げるように、遠吠(とおぼ)えをした。

 藤村(ふじむら)の魂(たましい)が、びりびりと震(ふる)えた。

 山犬(やまいぬ)は、藤村(ふじむら)の背中(せなか)を、前足(まえあし)でぽんと小突(こづ)いた。

 修験(しゅげん)装束(しょうぞく)越(ご)しでも伝(つた)わった。

 山犬(やまいぬ)の毛並(けな)みがさらさらで、肉球(にくきゅう)がぷにぷにであることが。

 さてはこの犬(いぬ)、野生(やせい)ではないな。

 藤村(ふじむら)が目(め)を凝(こ)らすと、赤目(あかめ)の上(うえ)に、黒毛(くろげ)に白抜(しろぬ)きの麿眉(まろまゆ)が見(み)えた。

 空野(そらの)の飼(か)い犬(いぬ)である黒柴(くろしば)だ、と藤村(ふじむら)は直感(ちょっかん)した。

 彼(かれ)は唸(うな)った。

「Reiten(ライテン) Sie(ズィー)(乗(の)りたまえ)!」

 犬(いぬ)の鳴(な)き声(ごえ)と、独逸語(ドイツご)のスペルと、日本語(にほんご)の意味(いみ)が、三重(みえ)に聞(き)こえた。

 彼(かれ)は伏(ふ)せをして、藤村(ふじむら)を待(ま)った。

 藤村(ふじむら)は蹣跚(よろ)めきながらも立(た)ち上(あ)がると、裸馬(はだかうま)に乗(の)るように、彼(かれ)の背(せ)に跨(またが)った。

 彼(かれ)は颯然(さつぜん)と駆(か)け出(だ)した。


 幾山河(いくやまかわ)を越(こ)えただろうか。

「末黒(すぐろ)!」

 澄(す)み透(とお)る聲(こえ)に名(な)を呼(よ)ばれて、彼(かれ)は高(たか)らかに答(こた)えた。

「Frauchen(フラオヒェン)(姉様(ねえさま))!」

 そう呼(よ)ばれたのは、やはり空野(そらの)だった。

 空野(そらの)は白装束(しろしょうぞく)を身(み)につけて、墓石(はかいし)を背(せ)に佇(たたず)んでいた。

 空野(そらの)は、さらに呼(よ)び掛(か)けた。

「Hier(ヒア)(此方(こちら)へ)!」

 末黒(すぐろ)と呼(よ)ばれた犬(いぬ)が空野(そらの)の前(まえ)に着(つ)くと、

「Fein(ファイン)(よし)!」

と空野(そらの)は褒(ほ)めた。次(つぎ)に、

「Platz(プラッツ)(伏(ふ)せ)!」

と空野(そらの)が指揮(しき)すると、末黒(すぐろ)は伏(ふ)せをした。

「Fein(ファイン)(よし)! Bleib(ブライプ)(待(ま)て)!」

 そして、空野(そらの)は藤村(ふじむら)に尋(たず)ねた。

「藤村(ふじむら)くん、下(お)りられそう?」

「あ…」

 藤村(ふじむら)は、日本語(にほんご)の空野(そらの)より快活(かいかつ)に見(み)える独逸語(ドイツご)の空野(そらの)に戸惑(とまど)っていた。

「…ああ」

 如何(どう)にか答(こた)えて、末黒(すぐろ)から下(お)りた。

「In(イン) Ordnung(オルドヌング)(よろしい)!」

 そのコマンドで、末黒(すぐろ)は伏(ふ)せのポーズを解除(かいじょ)した。

「末黒(すぐろ)、Brav(ブラーフ)(お利口(りこう)さん)! Danke(ダンケ)(ありがとう)!」

 藤村(ふじむら)にもDanke(ダンケ)(ありがとう)なら分(わ)かったので、藤村(ふじむら)も末黒(すぐろ)に、

「…Danke(ダンケ)(ありがとう)、末黒(すぐろ)」

と言(い)った。

 末黒(すぐろ)はスンと鼻息(はないき)を吐(は)いた。

 そして、末黒(すぐろ)は空野(そらの)を守(まも)るように、藤村(ふじむら)を見張(みは)れる所(ところ)で横(よこ)たわった。


「さて、如何(どう)したの」

 空野(そらの)が藤村(ふじむら)に尋(たず)ねた。

「空野(そらの)の、妹(いもうと)さんを見掛(みか)けた」

「まあ、歌織(かおり)に。歌織(かおり)は、元気(げんき)かしら」

「そこの弟(おとうと)くんを連(つ)れて、散歩(さんぽ)が出来(でき)るくらいには」

 空野(そらの)は、飼(か)い犬(いぬ)の末黒(すぐろ)を、ペットというよりコンパニオンアニマルとして弟(おとうと)扱(あつか)いしていたので、藤村(ふじむら)もそれに倣(なら)った。

「そう…。良(よ)かった…」

 空野(そらの)は天真爛漫(てんしんらんまん)に笑(わら)った。一方(いっぽう)で、

「俺(おれ)は良(よ)くなかった!」

と、藤村(ふじむら)の不満(ふまん)が爆発(ばくはつ)した。

「俺(おれ)は彼(かれ)らを妬(ねた)んでしまった。彼(かれ)らが空野(そらの)の家族(かぞく)だから。空野(そらの)の葬儀(そうぎ)に出(で)られて、墓参(はかまい)りにも行(い)ける。俺(おれ)には出来(でき)ないのに。空野(そらの)の家族(かぞく)でないだけで、俺(おれ)には何(なに)も知(し)らされないまま、空野(そらの)は死(し)んでしまっていた!」

 藤村(ふじむら)は早口(はやくち)に捲(まく)し立(た)てた。

「…ごめんなさい、藤村(ふじむら)くん」

「謝(あやま)るな。俺(おれ)はただ、苦(くる)しくて荒(あ)れているだけだ」

「藤村(ふじむら)くん……」

「嗚呼(ああ)! 何(なに)か云(い)いたいのに、其(そ)れが云(い)えない…。もどかしい…!!」

「うん」

 藤村(ふじむら)はキリキリしているのに、空野(そらの)はニコニコしてきた。

 藤村(ふじむら)は仏頂面(ぶっちょうづら)になった。

「空野(そらの)。何故(なぜ)、笑(わら)っている」

「ごめんなさい。藤村(ふじむら)くんが、藤村(ふじむら)くん自身(じしん)の事(こと)を話(はな)してくれるのが、嬉(うれ)しくて」

 藤村(ふじむら)は唖然(あぜん)とした。

「藤村(ふじむら)くん。話(はな)してくれて、ありがとう」

 空野(そらの)の微笑(ほほえ)みは、ダイアモンドのように奇麗(きれい)だった。


 藤村(ふじむら)は目(め)を覚(さ)ますと、溜息(ためいき)を吐(つ)いた。

 藤村(ふじむら)が空野(そらの)に心(こころ)を開(ひら)けるのは、空野(そらの)が死(し)んでいて、不変(ふへん)で安定(あんてい)しているからかもしれない。

 藤村(ふじむら)が空野(そらの)を傷(きず)つける事(こと)も、空野(そらの)によって傷(きず)つけられる事(こと)もない。

 安全(あんぜん)で安心(あんしん)できる愛着(あいちゃく)対象(たいしょう)として、藤村(ふじむら)が空野(そらの)を好(す)いているとしたら、それは此(こ)の世(よ)に生(い)きた空野(そらの)ではない。

 それは遺灰(いはい)ダイアモンドだ。

 愛(あい)したいのに愛(あい)せない此(こ)の世(よ)を、どうか愛(あい)せますように。

 藤村(ふじむら)は、苦(くる)しみながら生(い)きて、祈(いの)った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。