第16問 分かり合えないことを分かち合えるか
藤村は道場で弓を構えていた。
土曜の午熱に汗が滴る。
目が翳む。
的が暈ける。
弦音。
矢は的に中たらなかった。
藤村にとって、夏は熱かわしい。
安居したいが出家する覚悟はないので、図書館を詣でた。
神社でも仏寺でもないのに「詣でる」と云うのは、空野曰く、図書館が「言霊の幸う墓場」だからだ。
空野は、言霊の威気に中たりすぎると、躰に障るらしい。
空野ほど敏くない藤村にとって、図書館はただ清涼で静穏だった。
藤村は閲覧席で本を眺めて過ごした。
ふと、聲が通った。
「お疲れ様です」
潜めても明かに聞こえる、その聲には覚えがあった。
藤村はカウンターの奥を見遣り、目を奪われた。
奥の扉から現れたのは、目新しい姿の空野だった。
黒髪を、バレリーナのようにすっきり結び、御空色のシニヨンキャップを被せている。
貌の下半分を、白妙のマスクでしっかり覆っている。
青藍のセーラーを裏に、表に紺桔梗の司書風エプロンを襲ねている。
おそらく空野は閉架書庫で清掃でもしていたのだろう。
空野の玉箒の髪には綿埃が付いていた。
エプロンも繊芥で塵ばんでいた。
世間的には見苦しい恰好だろう。
しかし、空野の眼は幸いに福々していた。
その目が、藤村の目と合う。
空野は瞬くと、星眼を煌めかせて、藤村に向かって控えめに手を振った。
空野は化粧室で身嗜みを整えてから、藤村に逢いに来た。
仄かに虫除けの迷迭香が薫る。
埃と黴と汗の気配を宥めるように。
時が移って染み付いたものは、落ちにくい。
髪が豊かで長ければ、なおさら。
シニヨンは解かれて、天然ストレートの黒髪は梳き直され、磨きが掛かって艶々していた。
雪白の肌膚を粧うのは天瓜粉だろうか。
咲まう花唇は撫子色。
エプロンを取ってから、エチケットブラシを掛けたように、制服は清潔だ。
青藍のセーラーに氷白のタイが冴える。
二人は物言うこともなく、図書館を出た。
ソーダブルーの昊の底、白泡の石道に、影法師が落ちる。
「空野が残っているのは珍しいな」
「図書委員のお勤めよ。梅雨が明けたので、土用干しをしていたの。藤村くんこそ如何したの」
「部活」
「部活だったの」
藤村は、的から外れた矢を想う。
「…空野は、果報がなかったら如何する。たとえば…もし空野がせっかく直した本が、この先、誰にも読まれないとしたら」
「…私は、言霊の依代に、九十九に傅くように、お勤めしているから…たとえ誰にも読まれないとしても、お直しはすると思う」
「何故」
「大切だから」
「その葡萄は酸っぱいかもしれないぞ」
「あら、藤村くんたら狐さんだったの。ねえ、狐さん。その葡萄の実が甘くても酸っぱくても、私にとって大切な葡萄の樹なら、私は愛でたいの」
まことに、空野は人なのだろうか。
人として、世を渡れるのだろうか。
空野にとって、「人の心が無い」は禁句なので忌み憚るが。
あまりに空野は……と藤村は思う。
空野と、分かり合えないことこそ、分かち合いたかった。
肩を叩かれて、藤村は目を覚ました。
中学では弓道部に入っていた藤村は、高校では坐禅部に入っている。
また眠ってしまったらしい。
正射必中。只管打坐。
悟りにはまだ至らない。




