第14問 祟神を守神として祀り直すために何ができるか
雨は嫌いだ。
ジメジメして鬱陶しいから。
藤村は廊下を歩いていた。
廊下のど真ん中で、女生徒が数人、キャッキャッと陰口を叩いていた。
蜂の羽音ほど耳障りだった。
藤村は顔を顰め、廊下の片端に寄って、蓮葉女らを通り越そうとした。
或る女は、藤村をちらっと盗み見ると、舌怠く、挵るように、ささめいた。
「□□さんってさぁ、×××だよねー」
「ね〜」
五月蝿い。
耳から毒を流し込まれた。
藤村の顔から表情が消え失せた。
拳をぎゅうと握り込む。
掌に怒爪がぎりぎりと食い入るほど。
口を結んで吐気を堪える。
藤村は、ガッと廊下の角を曲がろうとして、危うく誰かに打つかりそうになり、踏み止まった。
「ごめんなさい!」
涼やかな聲が澱を漱滌する。
藤村は毒気を抜かれた。
「あっ、いや、すみません、こちらこそ…」
噂をすれば影が差す。
謝りながら相手を見据えると、やはり空野だった。
空野を舌禍に遭わせたくない。
藤村は狼狽えて、その場凌ぎの出任せを口走った。
「空野、この先に蜂が出る。危ない。他の道へ」
空野は片頬に繊手を添えた。
「あら、藤村くん。蜂さん、迷子なの? 迷子なら、おうちに帰してあげないと…。でも、蜂さんは、雨宿りできる方がいいかしら……」
空野は沈潜してしまった。
藤村は心算ミスを悔いた。
空野は蜂と聞いても逃げない。
むしろ助けに行こうとする。
空野にとって、蜂は敵ではなく友だから。
藤村は良心が疼いて告白した。
「空野、俺は嘘を吐いた」
「………あらまあ」
空野はおっとりと首を傾げた。
藤村と空野は逍遥する。
蓮池の周縁をひたひたと。
雨靄に烟る校庭で。
真朱の傘下で寄り合って。
「何故、怒らない。空野は俺に嘘を吐かれたのに」
「確かに、嘘は罪深いものよ。
贋金くらい。
言語も貨幣も信用で動いている。
贋金が出回ると、貨幣経済というシステム全体の信用が落ちて、そのシステムごと使えなくなる。
信用を回復するために、エネルギーを費して、新しい貨幣を造らないといけなくなる。
嘘もそう」
「俺はシステム全体ではなく、空野個人にこそ謝りたいんだが…」
「誰にでも表現の自由は有るから」
「……たとえ陰で誹られても、そう言えるか」
「祟神は守神として祀り直すもの」
「…は?」
「私はκοσμοπολίτηςだから」
「え? コスモ、ポリテ…? …日本語で頼む」
「κοσμοπολίτηςは、自然法則に忠実な者。
κόσμοςをπόλιςとして服う者。
κόσμοςは宇宙・調和・秩序。
πόλιςは丘・城・砦。
OK(分かりましたか)?」
「…Maybe(たぶん分かっていません)」
「κοσμοπολίτηςは、Klatschmaulの定めるルールから外れるの」
「クラッ…? 日本語で」
「Klatschmaulは、ぺちゃくちゃ噂する人。
Klatschは噂。
Maulは動物の口。
独逸語のklatschenには英語のsplashのニュアンスがあって…。
泥水を撥ね掛けるように、噂を飛び散らす人のこと」
「つまり………。分からない」
「Klatschmaulは人を貶める。
Klatschmaulは、ヒーロー役として闘いたいから、ヴィラン役を求める。
スケープゴート役として追われるモノを求める。
攻撃行動は自己防衛反応。
反応するのは刺激されたから。
Klatschmaulの理想が、現実に侵されて、脅かされたから。
Klatschmaulの理想は安全なところで安心すること。
でも、現実は危険で不安だから。
Klatschmaulは、現実が理想と違うことに耐えられない。
理想と現実の間にギャップが有ることを認められない。
認めたくない。
自分に影が有るなんて。
如何していいか分からない。
分からないのは、怖いから」
「………ああ」
「祟の元になる、恨み辛みも、妬み嫉みも、感情なの。
感情は、センサー、示すもの。
たとえば、信号の赤を感知したら、『止まれ!』って感情が、体に教えてくれる。
同じように、恨み辛みも、妬み嫉みも、人を守ろうとしてくれているの。
だから、私が祟神に怒ることは無いの。
祟神も守神だから」
「俺は、祟に遭ったら、そんなに平静では居られない」
「動揺するのは自然なこと。
理想と現実、目的と手段、結果と原因、未来と過去は、混同されやすいけれど、違うから、分けて考える。
理想的な未来を期待していたのに、現実が目的から外れた結果になったら、動揺する。
結果を期待しないのは難しい。
でも、結果が儘ならないとしても、手段は選べる。
結果のフィードバックを受けて、学習して、修正して、別の手を打つ。
私は、それを修行とすることで、ἀταραξία…不動心を保ちやすくしているだけ」
「…そうか」
「諸説あるけど…。
そもそも、期待が外れすぎるほど、結果や未来が予測しづらいのは、変化が激しすぎるから。
もともと、変化の激しい環境は、生きにくい。
月も火星も、地球では砂漠も、昼夜の寒暖差が激しい所は、生きにくい所でしょう。
地球が生きやすいのは、水が有るから。
水の熱しにくく冷めにくい性質が、温度の変化を緩やかにして、環境を穏やかにしている。
だから生きやすいの」
「…変化に適応しなければ生き残れないが、誰もが変化に適応できるとは限らない、という事か」
「…そうなの。適応も、生存も、当たり前にできることではないのよ」
「…疲れたな」
「休みましょうか…」
藤村と空野は、白亜のガゼボで息を吐く。
空野がホットミントティーを出せば、藤村はチョコレートを出す。
ホットミントティーは、雨で冷えた体を内側から温める。
爽涼なミントの清風が、邪気を吹き払う。
空野が淑やかに菓子を摘む。
親指と人差指と中指をぴんと揃えて。
口に運ぶと、珊瑚の唇がふわっと綻ぶ。
チョコレートの蕩ける甘味は、草臥れた体をまったり寛がせる。
糸雨はしとしと降り続く。
青蛙は、歌袋を風船ガムのようにぷくぷく膨縮させながら唱う。
蝸牛は、のっとり雨径を這い渡る。
雨は降り染む。
人にも蛙にも蝸牛にも、等し並みに。
雨音は愛子を慈しむ揺藍歌のようだ。
このまま眠ってしまえたらいいのに。
藤村は目を醒ました。
登校の道すがら、紫陽花を見掛けた。
紫陽花の色は移り変わる。
おおよそ、土壌が酸性なら青く、アルカリ性なら赤く。
リトマス試験紙とは逆だ。
同じだったら分かりやすかったのに。
紫陽花はややこしい。
などと、藤村は紫陽花に不満を投影している。
紫陽花に、藤村にとって分かりやすく在ることを期待していたのに、外れたから。
ところが、そんな紫陽花も、自然法則に忠実なコスモポリテースなのだと知った。
雨は嫌いだった。
けれどもう、憎めない。




