第11問 自傷で何が救えるか
藤村は手首を切っていた。
それは生理現象のように、無意識に行われた。
赤線がじわじわと滲んでゆく。
その様をぼんやりと眺めている。
ふと、教室の扉が開いた。
扉を開いたのは女生徒だった。
彼女は扉を閉めて、藤村を見て、固まった。
さて、藤村の自傷は、彼女に無視されるのか、それとも説教されるのか。
同学に言い触らされたり、教師に言い付けられたりしたら、煩わしい。
藤村は彼女を疎んだ。
すると、彼女の目がぱっちりと瞬いた。
次いで、彼女の影がすーっと薄れた。
まるで人が消えたようだった。
彼女はそっと藤村に歩み寄ると、席に座していた藤村の足許にぺたんと跪いた。
彼女は、スカートの裾どころか、彼女が立っている時でさえ腰に届くほど長い髪の先が、床に付いても構わない。
彼女は藤村をまっすぐに仰いで、
「いたい?」
と、纖い聲で、あどけなく尋ねた。
藤村は顔を伏せたが、隠せなかった。
彼女が跪いて藤村を仰ぎ見ているからだ。
彼女からは藤村の顔が見えてしまう。
対する藤村からも彼女の貌が見えていた。
その貌は真っ白で、血の気が引いていた。
その瞳は真っ黒で、真空のように負圧で吸い込まれそうだった。
彼女は宇宙のように、恐ろしく、美しかった。
いつか、藤村の口からほろりと、
「わからない」
という詞が零れた。
自傷に慣れた藤村の感覚では、痛いか判らない。
脳内麻薬中毒で、癡かしくも同じ事を繰り返す。
どうすればいいか解らない。
どうでもいい。
どうせ何にも意味など無い。
何もかも面倒臭い。
面倒臭いモノは要らない。
要らないモノは捨てたい。
この執着から脱け出したい。
藤村が泥濘に嵌っている間も、彼女はただ待っていた。
たとえば、神宣を待つ巫女のように。
たとえば、自然と荒立つ水面が凪ぎ、水鏡が月を映すまで、波風が立たぬように。
静虚に、無為に。
彼女は藤村の荒魂が鎮まるのを待っている。
パチッ。
異音と電光で目が寤めた。
シーリングライトが耿々と眩しい。
心臓がドクドクと轟いている。
額にべっとりと滲んだ汗が冷えてゆく。
藤村は乱れた息を整えた。
起こされるならせめて朝日が良かった。
しかし、雨戸は閉じていた。
昨晩から暴風雨が荒れ狂っていたので、藤村は家に降り籠められていた。
そのうえ、今朝は停電した。
何も点かなかった。
状況をスマートフォンで調べようとしたが、妙に遅い。なかなかインターネットに繋がらない。
扇形のアンテナピクトを見るに、Wi-Fiとの接続が切れている。
そういえば、停電するとルーターの電源も落ちるのだった。
ラジオなら物置から発掘できるが億劫だ。
故に藤村は二度寝を決めた。
そして今、通電による点灯で起きた。
寝覚めが悪い。
自傷の過去は、思い出したくない、辛い、忘れたい、記憶で、歴史だ。
痛みを覚え続ければ、拷問されたように、気が狂うだろう。
終わった事にして忘れてしまえば安楽かもしれない。
それでも藤村は、苦しむ事を全うしたかった。
あの真空を耐えきりたいから、まだ死ねない。
たとえ正気を失おうが、ペンを執る。
内に存るモノを言葉を通して外に出す。
体の裏に有るモノを心の表に現す。
無意識の下に潜むモノを意識の上に浮かべる。
客体を主体から、問題を問者から、罪を人から、切り離す。
そうして、インクが血のように溢れ出した。




