第七三話 愛鈴 一
真っ暗な場所だった。
星明かりすらもない。
完全な闇だ。
血の匂いは立ち込めている。温度が感じられる鉄錆の匂いだ。
しかしそれは、隣に気配を感じる雷韋から漂っている匂いではない。雷韋の匂いとは違う。別の鉄錆びた匂いが辺りに充満しているのだ。
陸王は雷韋に静かに問うた。
「何か見えるか?」
明かりをつける事自体は簡単だ。根源魔法の術を使えばいい。だが、こうも真っ暗だとどこに敵がいるか判断できない。吸血鬼がいるはずだが、雷韋の気配しか陸王には感じられない。下手に明かりをつけて、先に自分達の居場所を相手に知られるのはまずかった。
雷韋はすぐに声を返してきた。
「見える。カーテンの隙間から光が入ってきてる。お姫さんって、まだ子供なんだっけ」
「あぁ」
「そんなら、宙に浮いてるぜ。少し離れた寝台の中だ。間違いない」
相変わらず雷韋には闇の中でもものが見えるらしい。
「陸王、明かりつける。目、痛めるなよ」
それに対して返答を返すと、急に辺りに光が広がった。それにしては光量が弱い。暗所でいきなり強い光は目を痛めるからだろう。
弱い灯りに照らされたそこは室内だった。それも寝室だ。雷韋が言ったように、少し離れた場所には紗の帳を下ろした天蓋付きの寝台がある。帳は下りているものの、中の様子は徐々に強くなる明かりに照らされてよく見えてくる。
本当に少女は帳の中で宙に浮いていた。しかも夜着の背中を血で汚しながら。触手が背中を割って出ているのだ。背中に傷が出来ているのだろう。触手を伝って、ぼたぼたと血が滴っている。少女の夜着は血みどろだったが、背中から伸びている触手は五本だ。それは背後の歪んだ空間の中へ消えていた。多分、この歪んだ空間の向こうに、赤い空間が繋がっているのだろう。向こうの空間で、闇のような悪魔に玄芭と共に触手の血管が捕らえられている。
少女は目を大きく見開いたまま、真っ直ぐに天蓋に向いている。
それがくるりと、いきなり首だけ捻じ曲げてこちらに振り向いた。吸血鬼の本体になっているようだが、見開かれた瞳の色は紅くない。玄芭と同じく、綺麗な青色をしている。だがそれだけに、二人には薄気味悪く映った。
本体になってしまっているのなら本体らしく、瞳も紅く染まれと思ったのだ。それならそれで、すぐにも雷韋をこの部屋から追い出せる。歪みの向こうに突き出せばいいのだから。
顔を向けられて、雷韋は僅かに及び腰になる。黄色い瞳が怯えを含んでいた。が、陸王はその背を軽く叩いた。気合いを入れろとでも言うかのように。
「ふむ。私を殺しに来たのですか?」
少女がおもむろに口を開いた。しかし声は少女のものでも、話し方は吸血鬼のあの粘っこい話し方だった。それでいて、無闇に丁寧な物言い。
陸王は馬鹿らしいという風に言葉を返す。
「その身体、そんなに長く保たないだろう。そんなに失血しちまってるんじゃな」
確かに少女の真下は血の海だ。子供の身体で流したにしては多すぎる。
「それに、血を与えてたんだってな、玄芭に。どのくらいその身体から血液が失われた」
「こんなもの、多少ですよ。今の私の身体が人のものだと言っても、正真正銘、私の血が身体中隅々まで行き渡っているんですよ? そう簡単には駄目になりませんよ。貴方も魔族なら分かるのでは? 肉体が損傷しても、どんどん回復していく身体の造りを」
「馬鹿言うんじゃねぇ。そんな能力、普通の魔族が持ってるわけねぇだろう。おそらくその能力は吸血鬼である、お前特有のものだ。ほかの魔族は死ににくいってだけだ」
「ほう。そうでしたか。貴方にはこの能力がないと。私には、ほかの魔族との付き合いも特にありませんし、知りませんでしたよ」
陸王の話を聞いて吸血鬼は両手を合わせ、指先同士を擦り合わせた。陸王の言ったことが興味深かったのかも知れない。言う口元が笑んでいたから、なんとなく察せられた。
それにしてもこの余裕はなんだ? 肉体が人間のものになってしまっているなら、殺すことは簡単だ。いくら傷の治りが早いとは言え、首を落としてしまえばそれで終わってしまうのだから。背中からの血管も空間の向こうで悪魔に捕らえられていて、攻撃も何も出来ない状態だ。その上で、ただ宙に浮いているだけなら、尚更、簡単に殺せる。
陸王には、こいつが一体何を考えているのか分からなかった。
「おい」と陸王は吸血鬼に声をかけた。それに対して、少女は余裕ある眼差しを向けてくる。
「お前はなんの為にこの領地へ来た。なんの目的があった」
少女はにやりと笑う。
「たまたま、偶然ですよ。旅の途中、少し腹拵えをしておきたくなりましてね」
「腹拵えだ?」
陸王は不機嫌そうに復唱した。
「空腹だったのですよ。暫く何も口にしていなくて」
「何もって、お前が口にするのは人血だけだったろうが」
「そうですね。ですが今は人間の肉を少々口にしていますよ」
「なに? その身体になったからって、お前も人を食い始めたのか」
「いえいえ。私ではなく、領主殿が代わりに口にしてくださるのを私も同時に味わっているのですよ。なかなかいいですねぇ、人の肉も。これは新しい発見だ。この身体にならなければあり得ないことだった」
言って、忍び笑いを漏らす。
くつくつと少女には似つかわしくない笑い方だった。
「玄芭をあの調子にさせたのも、そう言えばお前だったらしいな。玄史は玄芭がお前に血を飲まされて操られていると言っていたが、あいつもお前と同じなのか? あいつ自身もまたお前なのか? 血を介して姫さんの身体に乗り移ったようだが、お前をここで殺しても同じか? 次は玄芭の方に乗り移るつもりか」
少女は、さて、と視線を逸らした。視線を逸らしたまま、口元に笑みを掃く。
「それは貴方達がどうでるかで変わってきますよ。少なくとも、私はこの身体にいるばかりの存在ではありませんから。この身体はまだ花の盛りを迎えていない。ただの蕾み。大切な花嫁を殺してしまうことは勿体ないですからねぇ。だから、新しい肉体が欲しいところです。私だけの、新しい身体が。そうしなければ、姫と番になれない」
陸王が強く睨め付けると、少女はふてぶてしくも視線を戻してきた。
「この身体の中にはまだ姫の魂が存在しています。完全に殺してしまったわけではありませんからね。証拠に会わせてあげましょうか?」
愛鈴と会わせる? それは本物の愛鈴なのか?
「何を企んでいる」
陸王は低く言った。生きていたとしても死んでいたとしても、陸王にも雷韋にも愛鈴が本物かどうか判断する術がない。元々の彼女を知らないのだから。だからと言って精霊から判断しようにも、人間族も魔族も、天慧と羅睺の系譜の守護精霊は風だ。同じ精霊では、そこから判断することも出来ない。
「企むも何も。会いたくはありませんか?」
「断る。何を企んでいるか分からんからな」
陸王の言葉を耳にして、驚いたのは雷韋だった。
「陸王! せっかく会わせてくれるって言ってるのに、なんで!?」
「馬鹿。よく考えろ。罠だ」
陸王はつまらなげに言った。
愛鈴と会わせると言っても、所詮は知らない相手だ。まだ愛鈴は生きていると言っているが、それが自分に手出しできないようにするための罠であり、攻撃の隙を突く計略かも知れないのだ。下手に乗せられて、具合が悪くなることの方を陸王は案じた。吸血鬼が伸ばしている血管の触手も、新たな身体に乗り移ったから硬度を得たのかも知れない。いや、以前も硬度があったのか? 分からないが、今は確実に高硬度を持つ血管になっている。
様々な面で、今の吸血鬼は以前の身体と違うのだ。
時間が経てば、魔気だって出せるようになるかも知れない。その為に、愛鈴に会わせるなどと言って時間稼ぎをしているとも考えられる。陸王はこうして警戒しているからいいものの、雷韋だとあっさり引っかかる可能性があるのだ。
陸王がそれを雷韋に指摘すると、少年は「うっ」と言葉を詰まらせてしまう。当たらずといえども遠からずだったようだ。
吸血鬼は二人の遣り取りを見て、声を出して笑っていた。その様は、どこか気に入ったというような風だった。
少女の姿で笑い声を発してのち、宙に浮いていた身体がどさりと血塗れの寝台の上に落ちた。
途端、部屋中に少女の激しい金切り声が響き渡った。それは酷く苦しんでいるものだ。激痛に堪えきれずに張り上げた声と表現したらいいだろうか。
いや、実際に苦痛からの叫び声だった。叫びの中にすすり泣きまで混じっている。
痛みが酷くて、身体を動かすことがほとんど出来ないらしい。身体を突っ張らせ、背を仰け反らせている。
「お、おい、お姫さんなのか!? 愛鈴って奴なのか、お前!?」
雷韋が声をかけるが、悲鳴もすすり泣きも止まらない。そもそも言葉が通じているのかどうかも怪しい。痛みが酷くて、言葉など届いていないのではなかろうか。
狼狽えたのは雷韋だった。
「ど、どうしよう、陸王。きっとこれ、本物のお姫さんだ」
「さて、どうだかな」
鼻で笑って言う。
「どうだかなって、だって、こんなに痛がってる。背中にあいた傷が痛いんだよ。俺なら傷なんてすぐに治してやれる」
陸王はそれを聞いて、少女の背中から長く伸びている血管に目を馳せた。本当にこの少女が愛鈴なら、血管からは硬度が消えていると思ったのだ。吸血鬼が愛鈴の真似をしているのなら、血管は硬度を保ったままだろう。空間の向こうで悪魔が髪で捕らえているが、斬ったとき一体どうなるか。吸血鬼なら自由を得て、この肉色の触手で襲いかかってくるかも知れない。
賭けになるが、断ち切ってみようと思った。
今や血管は少女の背中から伸びているだけで、力なく床を這っていた。ぴくりともしない。
その間も、少女からはすすり泣きと苦鳴が上がっている。
「雷韋、俺の後ろに来い」
「え?」
雷韋はぽかんとした顔を見せるが、陸王は愛鈴から目を逸らさずに、顎で背後に回れと示した。雷韋には何が何やらだが、陸王には何か考えがあると判じたのだろう。すぐに彼の背後に回る。
陸王は雷韋が背後に回って血管から離れたところで、おもむろに床を這う血管の触手を断ち切った。
途端、少女の口からはっきりとした悲鳴が上がり、身体を更に強ばらせる。
触手は断ち切れた。硬度はない。触手の断ち切れた部分からじゅぶじゅぶと流れ出るのは赤いが、毒液ではなく、血液のようだった。血管から溢れ出る赤い液体は床を汚すだけで、焼くことはない。またそのせいで、血の匂いがむっと増す。




