第七二話 悪魔
陸王は玄芭の周囲に現れた陽炎の如し赤い空間を注視した。当然、そこには何かあると思ったからだ。何もないのにあんな空間が出来るわけがない。
その空間からひゅるりと何かが這いだしてきた。まるで玄芭を護るように。
それを陸王は見た事がある。
肉色の細長い触手。管のようになっていて、先端からは毒液が垂れている。しとしとと零れ落ちた赤い液体は、地面をじっとりと焼いていた。液が垂れる傍から、地面から煙が上がっているのだ。
吸血鬼が使っていた血管の触手だった。しかも毒性が増しているようだ。それが赤い揺らぎから伸びている。ゆらゆらと玄芭を護りつつ、ゆらゆらと獲物を探して。
「雷韋、あの触手には絶対触れられるな。気を付けろ」
雷韋の身体を押さえていた腕を退かせて、陸王はゆっくりと立ち上がると再び正眼に構えた。
陸王の動きに触手がびくっと反応する
五本の触手が陸王と対峙していた。どちらも隙を見せない。隙を見せずに、時間だけがじわじわと経つ。玄芭は陸王を見、陸王も玄芭を注視する。
と、動いたのは玄史だった。
片方の松葉杖に掴まりながら腰を上げていく。
「立つな!」
陸王が叫んだのと、傍らの兵士が玄史を庇って伏せさせたのが同時だった。
ひゅと鋭い音を立てて触手が走る。
叫び声が上がった。
玄史を伏せさせた兵士の鎧に、一本の触手が突き刺さっていたのだ。
陸王は舌打ちして、兵士のもとへ走る。距離は僅かだ。その僅かな間に兵士の肌からはハリもツヤもなくなり、かさかさの屍体へと変わってしまった。玄史が地面に倒れる音と同時に、兵士の屍体が被さる。玄史が倒れたとき、人の倒れるどさっと重い音がした。なのに兵士が被さった音は、はさりと言う枯れ果てた音だった。あとは金属の音。剣と鎧だった。
一瞬のうちに、身体中の体液が吸い取られたのだ。毒液を注入せずに体液だけを吸い取った。だから、少なくとも屍食鬼にはならないだろう。それどころか、鎧の重さに負けて、かさかさの身体は砕けている。骨まで砕けているのだ。それでどうやって屍食鬼になるというのか。
陸王は触手目掛けて吉宗の刃を振るう。
途端、酷く硬い音が辺りに響いた。
触手はまだ兵士の身体に突き立ったままで、吉宗の刃も受け止めていたのだ。
思いもよらず、硬度がある。
刃を動かしてみれば、ぎりっと硬く擦れる音が鳴った。力を加えても、それ以上はどうにもならない。
「陸王!」
雷韋の声にはっとする。真横から触手が二本伸びてきていたのだ。
反射的にそれを吉宗で防ぐ。刃の側面を立てて防ぐと、血管がそれぞれ刃の上を滑って別の方向へと曲がって飛んでいく。その際も、滑る音が甲高く響いた。
斬れない、と思った。
正直、焦った。吉宗で斬れないものはこれまでなかった。生物なら尚のことだ。これまで、どんな生き物でも斬ってきた。魔物だろうが魔族だろうが。
皮膚の下に血液が流れているものを、斬れないと判じたのは初めてのことだったのだ。
どうする? と胸中で声がする。焦りもある。
そんな陸王の様子を見て、玄芭は笑い声を上げた。とても、とても楽しげに。と思えば、再びの咆吼だった。おおおおおっと腹の底から湧き出すような声。地響きが上がり、激しい揺れも再燃だ。
血管の触手はやり過ごしたが、陸王はまともに立っていられなくなる。足下がぶれた途端、狙っていたとばかりに五本の血管が前方から一気に襲いかかってきた。
ここで片膝でもつけば、間違いなく一、二本の血管に刺される。それだけは何としてでも食い止めたかった。しかし斬れないのに、ここをどうやって切り抜ける?
その時雷韋が何かに気付いて、大声を上げるのが聞こえた。
残念ながら陸王には、辺りに目を配っている暇はなかった。
玄芭は咆吼を張り上げながら、勝利の笑みを唇に乗せる。
今、陸王がここから逃げれば、玄史と兵士が犠牲になる。だから動くことは出来なかった。それでも応対しなければならない。例え斬れなくとも、なんとかしなければ。
触手が迫ってくるのがよく分かる。一本、一本、どこを目掛けているのかさえ理解していた。軌道だけは見えている。
それを打ち払う方法がないと言うだけで。
何故か突然、吐き気を催すほど不快な気分になった。
足下が激しくぐらつく中で、それは突然のことだった。
目の前を影よりも、闇よりも暗い何かが横切った。横切っただけではなく、触手を巻き込んでいったのだ。
気が付けば、目の前から触手は一本もなくなっていた。地響きすらなくなっている。当然ながら、玄芭の雄叫びは消え去っていた。ついさっきまでは勝ち誇った笑みを浮かべていた口元からは笑みが消え、その代わりに玄芭は明後日の方向を見ていた。
思わぬ何かに助けられたと知って、同時に、玄芭が見ている方向へと陸王は視線を向けた。
そこには長い髪の女が立っていた。いや、女かどうかは分からないが、身体の線がそうと知らせているような気がしたのだ。
ただし、女の姿は影のように真っ暗だったが。
闇よりもずっと濃度の高い闇だ。
目も鼻も口も何もない。それなのに、笑っている気配がした。高く笑っているのではない。ひっそりと笑んでいるのだ。
その女の長い髪には血管の触手が絡め取られていた。血管の先からは、毒液が地面を焼いて滴っている。ぐねぐねとうねりながら。まるで排泄物の中に湧いている蛆のような動きだった。ぞっとする。気色が悪い。
はっきりとした嫌悪を感じたとき、雷韋が声を上げる。
「陸王、あれ! 紫雲、何したんだ?」
はっとして振り返ると、紫雲は印契を宙に翳し、その印契の前には直系一メートルほどの白い召喚陣だけが展開していた。 召喚魔法なら、魔方陣も同時に展開しているはずだ。
陸王の脳裏に『召喚魔法』ではなく、『召喚術』という言葉が浮かぶ。
やはり紫雲は使えるのだ。
召喚術を。
悪魔を呼び出す術を持っていた。
「お前……!」
陸王は思わず詰りたい衝動に駆られたが、それは紫雲によって遮られた。
「今は話している時間がありません。すぐに玄芭を退けますから、あの空間の中へ。触手が伸びてきているという事は、向こうに吸血鬼の本体があるはずです」
そう言った直後、神聖語を口にする。その嫌な響きに、陸王は両目を細めた。が、闇の女が目にもとまらぬ速度で目の前を擦り抜けていく。気が付いたときには、女の長い髪の中に玄芭が絡め取られていた。ついでに口封じをするかのように、女の髪の毛が玄芭の口元を隠して。これではもう咆哮を上げられまい。発せて呻きだけだ。
「さぁ、行って!」
紫雲が言うと、陸王は雷韋を振り返った。
そんな陸王に、「行く」と雷韋はしっかり答えた。
そして立ち上がる。
その二人に向かって、声が投げかけられた。
「姫はもう人ではない。ここ数日、兄上に自分の血液を飲ませていた。私はそれが恐ろしくて、見ていることしか出来なかった。今、兄上は操られているだけだ。吸血鬼が姫に血を飲ませて、身体を乗っ取ってしまったのだ。この三日、魔気は出していない。多分、魔気は出せなくなっている。だが、あの子はもう人じゃない。殺してやってくれ!」
玄史だった。玄史の声がその時だけは力強く響いた。
それに対して頷き、陸王は雷韋の腕に傷があることを確かめて、二人で赤い空間に飛び込んだ。
【お知らせ】
来週の11月25日火曜日の更新はありません。
用事があって、四泊五日で奈良まで行かなければならないので。
観光ではありません。
観光だったらどんなによかったか。
平城京跡も見たいし、大極殿も見たいなぁ。
と言うわけで、戻るのが27日なので、28日金曜日には更新再開出来ます。
一週間のお別れですが、よければ待っていてくださると嬉しいです。




