第七一話 肉
雷韋を宥めてから陸王は玄史に声をかけた。
「おい、玄史。玄芭はいつからこんな事になった。何故、人の肉を食うようになったんだ」
「……今夜、急にだ」
邸では失血のためになかなか身動きが取れない玄史だったが、玄芭は魔気の影響で声が出なくなったと聞かされた。その上、玄芭は起き上がることが難しくなっていたらしい。吸血鬼からの影響で、状態が悪かったのは玄史の方だったはずなのに。
そして今夜、玄芭の様子を見ようと寝室へ向かったところ、玄芭が召使いの女を殺して食っていたというのだ。それを見て、流石に玄史も驚いた。あり得ないことだからだ。玄芭は人間族だ。魔族ではない。なのに、人を殺して食っている。それも発見したとき、実に旨そうに食っていたというのだ。
玄史が何をしているのかと問えば、急に玄芭は邸を飛び出し、そのまま行方が分からなくなってしまった。厩舎から馬を一頭引き出して、砦を抜け出したらしかった。玄芭のために、門兵が門を開けたというのだ。玄史は状況を調べ、兵を集めて玄芭を捜してここまでやって来たという。いや、正確には各村を虱潰しにやって来て、最後の村がここだっただけだ。この村が砦から一番離れていたから。
陸王は話を聞いて、玄芭に顔を向けた。
玄芭も陸王を見る。
互いの目があった瞬間、玄芭はにやりと嫌な笑みを浮かべた。
「私は貴公に会うために砦を出たのだよ、玖賀陸王」
「なんの為に」
陸王は平然と答えた。
玄芭は喉の奥で笑って、言う。
「人の肉が旨いことを教えにな。以前は血ばかりだったが、今は肉も喰らう。初めて食してみたが、想像以上に旨い。貴公もどうだ?」
玄芭は陸王に向かって子供の足を放り投げてきたが、陸王はそれを受け取ることもせずに片手で払った。それから玄芭を射貫くように陸王は見た。
「『以前は血ばかり』と言ったか」
「さよう。言った。血ばかりだった」
「人を食ったのはどうしてだ」
「人の肉は旨いと聞いていたからだ。だから試してみた。口に合わねばどうしようかとも考えた。二日悩んで、今夜始めて喰らってみた」
「ほう。誰から人肉が旨いと聞いた」
「誰でもよかろう」
「声が出なくなったはずなのに、今は普通に話している。しかも人の肉が旨いと聞いていたから、血ばかり、から、食ってみた、か」
陸王は呟くように言って、玄芭から目を逸らさぬまま、玄史に向けて言葉を放った。
「玄史、手前ぇ、隠していることがありやがるな」
陸王の声は、腹の底から出ていた。
玄史は相変わらず俯いたままだったが、ややもすると、のろのろと顔を上げた。だが、声は発さなかった。
その玄史を見遣って、玄芭は嘲笑った。身を捩りながら。間抜けめとでも言いたそうに、指を差して笑った。その下品さは、まるで以前とは別人のようだ。
「玄史!」
陸王は大声を出した。
玄史はびくりと肩をびくつかせる。その様は真相を知っていると証明したようなものだった。
「玄芭はなんらかの形で吸血鬼と融合しやがったな。人間のまま、魔族になった。以前の身体のままじゃ、血しか飲めなかった。今は人間の身体を持っているから肉が食えるようになった。玄芭は既に人としての一線を越えている。この場で始末するぞ。いいな」
有無を言わせぬ強い口調だった。
それを更に上回る怒声が響き渡った。
「玖賀陸王! お前も人の肉を食ってみろ! 別の世界が扉を開けるぞ!」
玄芭だった。
玄芭が、今度は陸王を指さして怒鳴り声を上げたのだ。玄史を嘲笑った影はどこにもない。
しかし陸王は、おかしそうに口端を上げた。
「どうしてそんなに勧める。どんな理由で」
「それはお前自身がよく知っているはずだ」
吐き捨てるように玄芭は言った。蔑むかのように。
陸王は笑みを捨てなかった。捨てずに、挑発するように言い遣る。
「お前があれを見た記憶があるなら、お前は既に玄芭じゃねぇ。玄芭の姿をした吸血鬼だ。今度こそ、その素っ首叩き落としてくれる」
言うと、陸王は刀の切っ先を玄芭に向けた。
そこで玄芭は口元を緩めた。眼差しは哀れむようなものになる。
「やって見せろ。この身体が使い物にならなくなるだけだ」
両腕を広げて、首筋を晒すように頭を傾ける。
その様に、陸王は怪訝な顔になった。
玄芭と吸血鬼は融合しているわけじゃないのかと、胸の内で疑問が浮かび上がったのだ。
「陸王」
今度は雷韋だった。そっと上着の裾を引っ張る。
「あいつ、ほんとに吸血鬼なのかな? さっきから魔気の一つも感じない。吸血鬼なら、魔気を放ってくるんじゃないか? それに俺を第一に狙ってくるはずだ。なのに、そんな気配もない。紫雲のことだって気にしちゃない。神聖魔法を嫌うはずなのに」
雷韋の言うとおりだった。吸血鬼なら魔気の一つも使ってくるはずだ。あれだけ雷韋に執心していたのに、気にする素振りさえ見せない。紫雲のことも同様だ。
だとしたら、玄芭の今の状態はなんだというのか? 人の身体を得て、魔気を発することが出来なくなったか? では、神聖魔法はどうか。これもやはり人としての肉体を得たことで、効かなくなったか? それに、陸王の瞳の色が変わった事で陸王の正体も分かっている。だからこそ、人肉を勧めてくるのだろう。けれど、何故そうなってしまったかは分からない。ただの人間族なのか、それとも融合体なのか?
分からないが、陸王は余計な事は全て吹っ切った。
「なら、遠慮なく行かせて貰うぞ」
陸王が構えようと体勢を変えたとき、玄史から声が上がった。
「ま、待ってくれ」
酷く怯えたような声だった。震えていないものの、それと同程度の情けなさは感じた。
「兄上は、違うのだ」
「何が違う」
陸王は玄芭に対して正眼に構えると問うた。
「兄上は……兄上は、操られているだけなのだ」
「誰に」
真っ直ぐに問われて、玄史は俯いた。応えは返らない。
「言え。誰に操られてるってんだ」
「それは……」
陸王に迫られて、やっとという風に言葉を絞り出したとき、玄史が玄芭に表情なく詰め寄られた。
「玄史。私の全てを奪うというのか?」
玄芭の言葉に、玄史がばっと顔を上げる。
「しかし! あれはもう……!」
これまでになく、玄史は声を張り上げた。
顔を勢いよく上げた拍子のためか、それとも声を張った拍子のためか、玄史の身体がよろりとふらついた。それを兵士二人が慌てて両脇から支える。
玄史は呼吸を乱し、それでも玄芭に言葉を放った。
「あの子はもう、人ではありません。あれこそが吸血鬼です。姫は亡くなりました」
陸王は姫と聞いて、すぐに愛鈴を思い出した。それは紫雲も同じようで、それまで玄芭に向けていた視線を玄史に向け直した。雷韋だけがぽかんとしている。人質に取られたとだけしか知らない雷韋は、愛鈴と姫と言う言葉がすぐに結びつかなかったのだ。
「姫、って……」
雷韋が呆然として口にする。
「人質に取られていた玄芭の娘だ」
「え? じゃあ、愛鈴ってお姫さんか!? そんな、なんで!」
雷韋が驚きに叫んだ瞬間、玄芭が雄叫びを上げた。獣のような咆哮だ。途端、地面が激しく揺れ始める。誰も彼も、まともに立っていることすら出来なかった。村人達は腰を抜かしたように転がり、兵士達は低い体勢になる。馬は驚き暴れ、周りの者達を蹴り上げようとする。それをなんとか手綱を持った者達が押さえ込もうとするが、馬の方が力があって引き摺られてしまう。
玄史も膝から崩れ、兵士達に護られるようにして激しく揺れる地面に膝をついた。
紫雲は揺れが始まった瞬間に地面に片膝をついて、片手で身体を支えた。
陸王は雷韋を引き倒すようにして伏せさせ、自分は片膝をついて玄芭の様子を窺う。
玄芭の雄叫びは長かった。長いだけではなく、雄叫びが続く中で彼の周りの空間が徐々に歪み始めた。ぼんやりと空間が赤く染まっていくようにも見える。その様は、まるで色のついた陽炎のようだ。
やがて、玄芭の周りの陽炎が完全に固定する。ゆらゆらと揺らめきながら、空間は開いていた。それと時を同じくして、玄芭の雄叫びも鎮まり、激しかった地揺れもぴたりと収まる。




