第四四話 逃亡
右前足のない銀色の狼が駆けていくのを見止め、陸王は声を張り上げた。
「紫雲、奴が逃げていく。追うぞ!」
「分かりました」
陸王は屋根から紫雲の返事を聞いて、そこから直接地面に飛び降りた。それとは逆に、紫雲は階段を降りて外へ出るつもりらしい。
先に外に飛び出した陸王は宿の裏手の厩舎に回った。そこに馬を二頭、用意してあったのだ。
紫雲が宿から飛び出してきたときには既に騎乗して、もう一頭の馬の手綱を手にした陸王の姿があった。陸王の傍には根源魔法で作った光の球が浮いている。
「急ぐぞ!」
陸王は紫雲に馬の手綱を放ってから馬を駆った。紫雲も手綱を手にすると、すぐさま騎乗して陸王のあとを追う。
陸王の隣へ並んで、
「雷韋君の血の一滴。本当にかかりましたね。見え見えの手だと思ったのですが」
紫雲は懐から雷韋の血を一滴だけ落とされた布を取り出して、そのまま風の中に捨ててしまった。
「奴にとっちゃ、雷韋の血の匂いはさぞかし堪らん匂いだろうさ。涎垂らして引っかかりやがった。とんだ間抜けだ」
如何にも馬鹿にした言い口だったが、陸王自身は紫雲が言ったように血の匂いに惹かれて、まんまと引っかかったことがあまりにも夢物語臭くて、正直、驚きもあった。こんなに簡単に引っかかってもいいものかと。裏を返してみれば、それだけ雷韋の血を啜りたかったのだということなのだが、あまりにも手応えがなさ過ぎて逆に怪しいと思える。
単に穿ち過ぎなのだが。
二人はとにかく馬を駆った。狼の姿に変化した吸血鬼の痕跡を逃すわけにはいかない。今は陸王が吸血鬼の血の匂いを追っているからいいが、また昨夜のように途中で怪我を治されると甚だ困る。そうさせないために迅速に追わなくてはならないのだ。怪我を治癒させる時間を与えてはならない。
畑から森の中へ入った。ここまではずっと血痕がはっきりと視認出来た。血の匂いも嗅ぎ分けられる。
片腕がなくて、空を飛ぶことが出来ないのだろう。ガーゴイルのように腕が自由で翼が別にあるのならいいが、吸血鬼が変化する蝙蝠は翼が両腕からなっているのだ。だから飛んで逃げることが出来ない。狼に姿を変えて地を走っているということは、つまり、そう言うことなのだろうと推察出来た。
月光の届かぬ深い森の闇を切り裂き、馬を疾走させる。血痕はどこかへ向けて、一直線に続いている。血の滴りが左右にぶれることもなかった。間違いなく、一直線だ。
果たして吸血鬼はどこへ向かっているのか?
分からないが追っていくしかない。今夜こそは居場所を突き止める。
馬を駆って駆って、森の中を突き進んだ。
と、前方に妙な闇溜まりがあった。光の球でも照らしきることの出来ない闇の塊だ。
否。それは人の形をしている。
吸血鬼だ。吸血鬼が闇の中に立っているのだ。それが闇の塊に見えたのだ。
陸王が馬を止めようとしたときだった。
隣を走っていた馬上から紫雲の姿が忽然と消えた。
はっとして、走り続ける紫雲の馬の手綱を掴むと、己の馬諸共留める。
「紫雲!」
落馬した瞬間は見ていなかったが、隣から姿が消えたことは分かっていた。慌てて紫雲の名を呼ぶが、藪と下草の中に埋もれていてその場からは見えない。
陸王の様を見ていた吸血鬼の目元口元が、きゅうっと笑みに捩じ曲がった。
「貴方、侍。よくも私の腕を切り落としてくれましたね」
言いながら、右腕を外套から覗かせる。驚いたことに、右手を不器用に握ったり開いたりしていた。
陸王が蹴り落とした腕を狼の姿で咥えて、ここまで持ってきたのだろう。それを身体にくっつけたというところか。ぎこちない動きなのは、取り付けたばかりだからだ。止血までは完全に出来ていないものと見える。まだ新鮮な血の匂いがしているから分かる。
吸血鬼は目を細めてから、軽く一礼をする。
「貴方に切り落とされた腕を元に戻すには、少々かかりますね。まずは回復のために食事をしなくては」
「食事だと、貴様」
陸王が忌々しげに口にすると、吸血鬼は「では、ご機嫌よう」とだけ口にして、今度は蝙蝠の姿に変化して飛翔していった。
陸王はそれを追おうとしたが、紫雲が落馬しているのだ。濃い魔気の気配が辺りにじわっと漂っている。放っておけない。
紫雲が標的になったのは、単純に魔気が効くからだろう。ここで時間を稼ぐために吸血鬼は待っていたとも言える。吸血鬼にも紫雲が修行僧だということは知れているのだ。陸王に神聖魔法が使えないと思っているからこそ、ここで待ち伏せし、紫雲を狙った。
陸王は腹の中で、致し方なしか、と言ちた。飛んで行ってしまったとは言え、血の匂いを追いかけることは出来る。
今はまず、紫雲だ。魔気に当たっているのだから、捜し出して解呪してやらねばならない。
紫雲を捜して発見してみれば、陸王が馬を留めた場所よりずっと向こうで意識を失って倒れていた。近づけば近づくほど、魔気の気配が強くなってくる。
本心では嫌だが、このまま紫雲を放っておけるわけもなく、陸王は神聖魔法をもう一度使おうと肚を括った。今夜中に吸血鬼を始末するつもりでいるため、己の弱体化は避けたかったがそうも言っていられない状況だ。
放置する時間が長ければ長いほど、心身に影響が出やすくなる。
紫雲の傍らに片膝をついて、片手で印契を組む。もう片方の手は紫雲の胸元に当てた。一度大きく呼吸をしてから、意を決して神聖語を口に出した。途端、重圧を感じ、身体の内部から捩じり上げられて、捻られたところから腐っていくような感覚が芽生える。神聖語を唱えれば唱えるほど、呼吸が苦しくなった。
だからと言って、やめるわけにはいかない。詠唱が完成するまで、どんな感覚に見舞われようとも。
詠唱の最中、息が詰まりそうになって数度言葉が止まる。それでも詠唱は無理矢理続けた。
苦しい中での詠唱が終わった瞬間、紫雲の身体から真っ黒な靄が吹き出し掻き消えた。
魔気だ。
既に陸王の身体には力は入らなかったが、それでも紫雲を肩に担ぎ上げて、陸王は馬の元までいくと紫雲諸共草の上に倒れ込んだ。その時の衝撃で、紫雲から呻き声が上がる。意識を取り戻す手前なのだろう。
陸王は動きたがらない身体を無理矢理に動かして、紫雲の頬を張った。
「紫雲、目ぇ醒ませ。奴に逃げられちまう。しっかりしろ」
言葉をかけて、数度、紫雲の頬を張るとうっすらと目が開いた。
その眼差しは茫洋としていて、どこか焦点が合っていない。
「しっかりしろ、おら!」
陸王は自由にならない身体に無理に命じて、紫雲の額を引っ叩いた。身体の自由が利かないので力加減も出来なかったが、紫雲は衝撃に顔を歪める。額を引っ叩かれたことで、一気に正気を取り戻したようだ。その証拠に、紫雲はいきなり上体を起こす。
「ここは? 私は一体」
「お前は魔気を食らったんだ。すぐに解呪したが、どこかに異常はねぇか?」
「解呪? まさか、また貴方が?」
「俺達二人しかいねぇのに、ほかの誰が神聖魔法を使えるってんだ」
陸王はまだ俯せのまま、やや苦しげな溜息をついてみせる。
紫雲は瞬間、黙り込んだが、苦々しい表情になると言った。
「すみません。貴方に負担を掛けることになってしまって。……心身に異常はないようです」
手を握ったり開いたりして返してくる。
紫雲の言葉に頷いて起き上がり、陸王は重い身体を引き摺って歩き出した。
「陸王さん、そんな状態でどこへ?」
見ているだけでも紫雲には陸王が最悪な状態にあることは分かった。だから声を掛けたが、
「奴は食事をしに行くと言っていた。あいつの怪我も治りきっていなかった。よくねぇことが起きる前に、奴の出血が止まる前にあとを追わんとならん」
「ならば私も……」
言って立ち上がろうとしたが、紫雲は強い目眩に襲われて膝をついてしまう。
「すぐに動くのは無理だ。俺も余力を残しておきたくて、お前を完全に解呪したわけじゃねぇ。魔気を祓ってからあとを追ってこい。風球があるから、それで連絡は取り合えるだろう。明かりも置いて行く」
言うだけ言って、陸王は新たな光の球を顕し、鞍に縋り付くように馬上へ乗り上げた。彼は一度大きく息をついてから紫雲を振り返ったが、そのまま何も言わずに馬腹を蹴る。馬は大きくいななきを上げると、陸王を乗せてその場から駆け去った。
そんな陸王を不安げに見送った紫雲だったが、すぐに気持ちを切り替えて、自分自身に改めて解呪をかけ始める。




