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第四三話 襲撃

 その日の夜。深夜。


 空は薄曇りで、元々月が細いのにもかかわらず、月は雲に覆い隠されたり現れたりとささやかな光が地上を照らしたり、照らさなかったりと忙しなかった。


 宿の二階の寝台には、蹲ったような盛り上がりがあった。小さな盛り上がりは静かに、定期的に上下している。頭まで上掛けをすっぽりと被っているので眠っている顔は見えないが、端から見ても眠っている様子はよく分かる。


 と、窓の一つからふっと月明かりが消え去った。窓枠に張り付く影が現れたのだ。

 正体は知れている。

 吸血鬼だ。

 真っ赤な瞳が、月明かりに照らされているだけの薄暗い室内を覗いている。


 吸血鬼は屋根の上に立って、窓硝子をかつかつと爪の先で小さく突つついた。これが眠っている相手を操る合図なのかも知れない。


 口元には嫌らしい笑みを掃き、紅い瞳は油断なく室内を眺める。


 寝台の上の塊が、もぞ、と動いた。


 同時に、室内の闇溜まりの中で影がのそりと動く。


 吸血鬼は動く影を目にして、訝しげな表情(かお)を向ける。誰かがいるような気配はなかったのに、寝台上の人物とは別に誰かが確実にいるからだ。窓の外からしっかりと室内の気配を確認していたにもかかわらず、何者かがいた。


「いいぜ。入ってこいよ。歓迎してやる」


 動いた影は、腰から月光に光るものを抜き払った。


 吉宗の刃だ。


 吸血鬼の顔から一度は消えた笑みが、再び浮かび上がる。笑みは挑発的なものだった。吸血鬼は陸王(りくおう)に招かれて、窓の鍵に外側から手を当てると、なんのこともなく解錠した。窓を開いて、顔だけをほんの少し室内に入れる。陸王がいようがいまいが関係ないという風に、大きく室内の匂いを嗅ぐ。雷韋から発される血の匂いを確かめているのだろう。肌の上からでも血の匂いは嗅ぎ分けられる。匂いを嗅ぎ分けて、吸血鬼はうっとりと陶酔した顔つきになり、捕食者の目で寝台の上の膨らみを見遣る。


 陸王はすっと寝台脇に立った。


 吉宗は下段に構えられている。陸王が構えを取っているのを見て、吸血鬼は言葉を発した。


「貴方は二日も私の邪魔をした人間ですね? 何故、魔気が効かぬのですか」

「日ノ本の侍だからだ。大陸の人間族とは根本が違う」


 確かに陸王から匂ってくる血の匂いは、大陸の人間族とは違う匂いがすることを吸血鬼は改めて確認した。それとて、実際には彼が魔人だからだ。神の血を直接継いでいる。また、日ノ本の人間族も神の気配に近い。神が使った『誕生』の力の余波によって生まれているからだ。


 この二つの違いは吸血鬼には分からなかったようだ。そもそも魔人なんてものは、陸王のほかにいるのかどうかすら怪しい存在だ。日ノ本の人間との違いなど吸血鬼にも分かるわけがない。ただ大陸の人間族と匂いが違うことだけは分かるだろう。


 吸血鬼が眉根を寄せて警戒しているところを見ると、陸王の言葉をそのまま受け取ったようだった。


「そうですか。日ノ本の人間族には魔気が効かないのか。ならば、獲物を手に入れる前に殺すだけです」


 陸王は吸血鬼の言葉を鼻先で笑った。


「今まで逃げ出すのが精一杯だったお前に俺が殺せるのか? 出来るならやってみせろ」

「私を招き入れたことを後悔しないことです!」


 吸血鬼が飛び込んでくる。右手の爪を鋭く煌めかせて。鋭い爪で切り裂こうというのだ。


 それに対し、陸王は刀を下段に構えたまま、動くつもりはないようだった。


 代わりに、それまで眠っていたはずの寝台の盛り上がりが上掛けを払う。上掛けが勢いよく宙を舞って、寝台の上にいたのは紫雲(しうん)だった。


 片膝をつき、既に片手で印契を象って神聖語(リタ)を口にしている。


 吸血鬼は唐突に始まった神聖魔法(リタナリア)の効果に、その場に釘付けになった。詠唱が苦しいのだ。嫌悪の表情になって、身動き一つ出来ないでいる。


 身動きを封じられた吸血鬼から、二、三歩先の距離に陸王はいた。


 陸王も、強い神聖語の詠唱文句に咄嗟に身体が動かなくなっていた。それを吸血鬼に悟られぬように、陸王は詠唱の中で無理矢理身体を動かした。一歩その場から踏み込み、刀を一閃させる。たったそれだけの動作で、陸王の身体中の節々が悲鳴を上げた。辛いが堪える。


 紫雲が詠唱しているのは何故か、悪魔族に対するときの命令だ。召喚術(コール)。召喚魔法(サモン)とは全く違う。神聖語で悪魔族に対し、この行動を行え、ああしろ、こうしろと次々と命じられる。


 召喚術を使う術者の能力が充分にあれば、悪魔族を召喚し、従わせることが出来るのだ。


 悪魔族は、魔族より高い次元の存在だ。堕天使と同等として知られている。魔人である陸王よりは格は低いが、高位魔族よりも上の存在であり、別次元に生息している。その悪魔族を呼び出し、従えるのが召喚術だ。


 今、目の前にいるのは魔族だ。悪魔族ではない。魔族がこの命令を耳にすれば、身体の自由を奪うことが出来る。命令に従うわけではないが、強い抑制の言葉になるからだ。


 魔族にとって神聖語は、どこまでいっても呪いの言葉なのだから。


 刀が一閃された瞬間、吸血鬼もその場から一歩退いた。黒い外套で鼻から下を隠し、紅い瞳で紫雲を睨め付ける。注意深く、陸王にもちらと目を向けた。


 紫雲は起き上がった瞬間は吸血鬼の瞳を見たが、すぐに目を閉じていた。真っ向から瞳を見れば、確実に魔気に当てられてしまう。それを避けたのだ。


 神聖魔法は範囲魔法だ。印契(いんげい)と詠唱が必要になるが、術者の声が届く範囲全てに効果がある。だからほかの魔術のように、対象に術を掛けるときに目を閉じていても関係ない。


 紫雲の詠唱は、さぞや吸血鬼にとっては耳障りだったろう。苦しげに、覗いた目元が歪んでいる。よく見れば、鼻先に皺が寄っていることにも陸王は気付いた。


 神聖語の詠唱は陸王よりも効いているはずだ。それでも陸王の攻撃を避けてみせた。まだまだ動けると陸王は踏んだ。だから再び斬り掛かる。身体に纏わり付く詠唱文句を跳ね返すように、素早く動く。


 一閃、二閃。三度目で吸血鬼は窓の桟まで後退した。だが、今にも均衡を崩して窓を伝って屋根から転げ落ちそうに不安定だ。それなのに、吸血鬼は紫雲を睨み据える。


 反射的に陸王が紫雲の前へ出た。途端、どん、どんと重い衝撃が二度立て続けにあった。一度目も二度目も、濃度の高い魔気が襲いかかってきた。まだ紫雲の詠唱は続いている。陸王が前に出なければ紫雲はもろに魔気を食らって、意識を失うことはないだろうが、また詠唱を途切れさせていただろう。それは先日の経験から分かっている。だからこそ、陸王は紫雲を庇ったのだ。


 ただ、背後から命令が響いてきて、知らぬ間に支配されそうになる。


 命令に従うのではなく、頭の先からつま先までの支配だ。聞いているうちに、視界がちかちかしてくる。そんな中で動こうとすれば、かなりの気力が必要だろう。それも陸王だけではなく、吸血鬼もだ。いや、吸血鬼の方が遙かに動きにくいに違いない。


 陸王より確実に位が下なのだから。


 吸血鬼は未だ陸王が構えを解かないのを目に留めながら、窓から屋根の上に降り立っていた。しかも右腕で顔を覆うようにして、蹌踉(そうろう)としている。


 陸王はそれを見て、好機だと思った。瞬間、身体から力を全て抜き、次の一瞬に全力を傾ける。


 一気に吸血鬼向けて窓を越えて襲いかかった。


 その刹那の間(ま)に、三度魔気が叩き付けられたが、陸王は意に介しもしない。そのまま突っ込んで、吸血鬼の右腕を肩口から切り落とした。


 吸血鬼は血をばら撒きながら、獣じみた唸りを上げて屋根から落ちていった。


 陸王は屋根の上に落ちて、そのままになっている切り落とした右腕を屋根から蹴り落とした。爪の長い指は鉤爪状になっていて、あたかも勝手に飛び掛かってきそうだったが、陸王にはなんの感慨もなかった。邪魔だから蹴落とした。それだけだ。


 すると、夜の漆黒の中に、何かが走り抜けていくのが屋根の上から覗けた。素早く駆け抜けていったのは、一匹の狼だ。体毛は銀色に鈍く光っている。なのにその狼は酷く走りにくそうにしていた。ひょこひょこと身体の芯がぶれている。


 よく見ると、右前足が肩の付け根からなくなっているのだ。血はぼたぼたと滴っている。滴る血の匂いは、吸血鬼のものと同一の匂いがした。と言う事は、駆けて行く狼は吸血鬼が変化へんげしたものと言う事だ。

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