第四五話 欺瞞でも偽善でも
陸王は吸血鬼の血の匂いを追いながら、森の中、馬を駆った。
匂いは随分と先から漂ってくるようだった。しかも頭上から匂ってくる。おそらくは樹上の葉や枝に血が滴っているのだろう。傷もある程度癒えたこともあるだろうが、枝葉が邪魔をして地面にまで滴ってこないのだ。だから上方から匂ってくる。
その匂いを頼りに馬を進めていると、紫雲の声が頭に響き渡った。風球を通して聞こえてきたのだ。
『陸王さん、聞こえますか?』
『聞こえてるぞ。身体の方はどうだ』
『完全に解呪しましたから、もう目眩一つ起こしません。それより、今はどの辺りに?』
陸王は問われて、樹上遙か遠くに浮かんでいる月に意識を向けた。月は中天を越えて、西にかなり傾いている。それを己の中で確認し、紫雲に答えを返した。
『お前の位置から見て、北東にいる』
『北東、ですか』
『俺が向かった先は分かってるな?』
『えぇ、見送っていましたから』
『なら、俺の向かった先に向かって馬を走らせろ。そっちが北だ。だから、途中から東に向かえばいずれ俺に追いつくはずだ。少なくとも明かりは見つけられるだろう』
『分かりました。すぐに向かいます。では、後ほど』
そこで一旦、会話は途切れた。必要最低限の会話だった。だが実は、陸王は引っかかっている事柄があった。
紫雲が宿屋で唱えた詠唱だ。あれは悪魔に命令を聞かせるためのもの。その分、魔族にとっては拘束の言葉にもなる。
神聖語と魔代語が正反対の発音のため、言葉を逆に辿れば陸王にも理解出来る。しかし、詠唱の言葉が問題なのではない。
詠唱そのものが問題なのだ。
あれは司教以上でなければ使ってはいけない詠唱だ。否。使ってはいけないのではなく、特殊な詠唱故に、次期司教と決定されている司祭だけが習得することを許された詠唱なのだ。
何故なら、悪魔召喚の召喚術は司教以上が使えるものと決められているからだ。教会の決まりは、厳密に細かく決められている。
だから修行僧には使えないはずなのだ。
だと言うのに紫雲は使った。確かにあれは、言葉の意味合いから考えると、悪魔を使役するときの命令だった。
一般的に、司教になれるのは人数的に限られてくる。村々には司祭と助祭が常駐するが、本来は司祭だって簡単に任命されるものではない。
紫雲はどこかの城塞都市で、僧侶として僧籍に入っていたと雷韋から聞いている。だとすれば、自分達二人が同じ齢であるなら、僧籍が変わり、紫雲の鍛え上げられた肉体を手に入れるまでにかかった時間を考慮して逆算すれば、当時の紫雲は助祭にすらなれていないはずだ。それどころか、助祭に任じられるほどの年齢にも達していない。今でも教会に在籍しているのなら、そろそろ助祭になっていてもそれほどおかしくはないが、実際には違う。紫雲の僧籍は寺院に移っている。寺院は実力主義で、紫雲はそこで心身を鍛え上げて大僧都になったらしいが、それだって更に上の僧階の僧正位に就けないのは、年齢が引っかかっているからだ。レイザスの若い助祭はなんらかの理由で、あの年齢で助祭位に就いているのだろう。彼は彼で、特殊なのだと思う。
それから言っても、紫雲は色々おかしいと陸王は思った。
彼も特別なのではないかと。
雷韋から聞いた限りでは、紫雲は一介の僧侶だった筈なのに、だ。年齢から考えても、あまりにも不釣り合いな能力を持っているのが陸王には気にかかった。
とは言え、それを今問い質すつもりはない。もしなんらかの理由で隠しているということなら、どんな風に詰問しても紫雲は何も答えないだろう。下手に聞き出そうとしても、全て無駄骨に終わるのではないかとさえ思う。まだよく知っているわけではないが、口は色々な意味で堅い男に見えた。
紫雲は陸王のことは、いらないところまで龍魔から聞いて色々と知っている。なのに陸王は紫雲のことをほとんど知らない。気持ちとしては特に知りたいとは思わないが、一方的に知られているのは正直、面白くなかった。
だからか、紫雲の秘密を暴いてみたいとは少し思った。
己自身で、そんな事はしないだろうと思いつつも。
必要になれば紫雲から、勝手に話してくるかも知れないのだ。今焦ることはない。いや、焦ると言うよりも、一方的に知られているのが面白くないだけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。
血の匂いを追いながら、陸王は益体もないことを考えている自分に今更気付いて、思わず苦笑した。
馬鹿馬鹿しく思えたのだ。
一方的に知られていることは面白いことではないが、だからなんだというのか。逆に、相手のことを知らないから、それもなんだというのか。そんな事はどうでもいい些末なことだ。知っていようが知らなかろうが関係ない。
それで何か悪いことが起こるというわけでもないのだから。
考えてみれば、どうでもいいことだと結が出た。
紫雲に対して、殊更、躍起になる必要はないと。
それよりも吸血鬼だ。どこへ逃げていったのか。どこまで逃げ出したのか。
一体、今、どこにいる?
こちらの方が気にかかる問題だ。
相変わらず血臭を追っているが、森はまだ先がありそうで途切れそうにない。匂いも同じだ。定期的に滴っているのか、途切れる様子はない。
まさか吸血鬼も、自分の血の匂いで追われているなどとは思わないだろう。
魔人である陸王もある意味、魔族の亜種だ。亜種同士、追いつ追われつは滑稽に過ぎる。陸王はそんな関係に、これもまた皮肉が利いていてどこかおかしいと思った。おかしいとは思ったが、愉快ではない。だからと言って、不愉快でもなかった。そうではなく、どこか虚しさを覚えていたのだ。
おかしいのに、虚しい。
そう感じたのは多分、似たもの同士だからだろう。陸王は人を襲って喰らったりはしないが、殺しはする。それも戦場というおおっぴらな場で。正直に言えば、戦場に立つのは楽しい。誰の目を気にせず殺しが出来るからだ。
魔族にとって、剥き出しの殺意と怯えと死臭が空間を包む戦場に立つことくらい楽しいことはない。
陸王はそんな場で、魔族の性を発散させるのだ。
吸血鬼も似たようなものだ。一度襲えば、そのあとは村に恐怖が伝播する。恐怖と不安が村を覆う。負の感情が渦巻く中で、獲物を物色するのは実に楽しいだろう。
二体とも、負の感情の中で人を害するのを楽しむ。ただ違うのは、それが合法か非合法かだけだった。
やっていることはどちらも変わらず、我欲を満たすこと。
根が同じなのだ。
それが陸王を虚しくさせた。そのくせ、陸王は人を救おうとしている。金の問題もあるが、村人達を殺すような真似はしていない。延命に必死だ。
陸王のそれは、完全に欺瞞だった。もっと個人的に言えば、偽善と言い換えることも出来る。
無意識のうちに、雷韋によく見られたいと思う気持ちがあった。
結局、それなのだ。陸王を動かす原動力は。
そんな思いを脳裏にうっすらと浮かべつつ、馬を駆る。
森はかなり深い。それでも血の臭いは消えずに続いている。
馬を駆るうちに、頭の中に声が響いた。
紫雲の声だった。今、森のどの辺りにいるのかと問うている。まだまだ深い森の中だと返そうとして、陸王ははっと返事をとどまった。
森の向こうが、ぼんやりと仄かに光を孕んでいたからだ。
陸王は馬の速度を落とすことなく、それでも光の正体を見極めようと視覚、聴覚に意識を張った。
馬を駆って飛び出した場所は、大きく開けた草原だった。月の頼りない細い光が、木の一本もない草原を闇の中に浮かび上がらせていたのだ。その光景に、陸王は自然と手綱を引いて馬を止めていた。
よくよく見ると、木の一本もないのではない。光の球を辺りに浮遊させて確認した限りでは、古い切り株が至る所にあった。
陸王はその光景に見覚えがあった。
ここは彩加に案内されて辿り着いた草原の有様とそっくりなのだ。
弱い月明かりでは照らしきれないあちこちの黒い塊は全て切り株だろう。無理矢理森を開いた歪な草原が再び目の前に現れたのだ。
いつどこから敵が進軍してくるのか確認するために切り開かれた、人工的な草原。
と言う事は、砦方面に馬を進めてきたと言う事だ。
吸血鬼がこちらに飛んでいったということは、領主の砦に巣くっていると考えるのが妥当な判断だと思った。
すとんと腑に落ちることもあった。村を護ろうとした陸王達を、玄芭と玄史の領主兄弟は、必死なまでに無関心を装っていたように思う。大方、身内を人質にでも取られているのだろう。
一つの村と身内の身の安全を天秤に掛ければ、当然、身内が重くなるに決まっている。
諦めにも似た複雑な感情が、胸まで這い上がってきた。
同時に、化け物の言いなりになっている兄弟に呆れもする。
陸王が訪れたときに、素直に助力を請えばよかったものをと。
ただ、玄芭達が陸王に助力を請うてくるという関係性は元々ない。所詮、一介の旅人だ。普通に考えて、彼等が頼ってくるとは考えがたかった。身内を人質にでも取られているなら尚更だ。身内の心配をするなら、一時だけ化け物の言うことを聞く方が、身内に降りかかる危険は少なくなる。そう考えるのも当然だ。
身内を救うための人身御供は、ほかにいくらでもいるのだから。
かと言って、これを看過できないところまで陸王は来ている。欺瞞でも偽善でもいい。既に乗りかかった船、いや、船に乗って腰を下ろしてしまっている。ここまで来て後には引けない。雷韋も狙われているのだ。
雷韋を連れて逃げることは出来る。契約不履行上等だ。他人がいくら死のうと陸王には関係ない。痛くも痒くもないのだから。
そう思うも、引き返せなかった。
雷韋の手前、引き返すことが出来ないのだ。あの少年に蔑まれた眼差しを向けられるのは耐えられない。
だから欺瞞でも偽善でもいいから、化け物の息の根を止めて事を終わらせないとならないのだ。
全ては自分のために。
そこで、再び紫雲の声が頭に響いてきた。そう言えばさっき、返事を返そうとして返しそびれていたことを思い出す。
陸王は紫雲に返答を返さなかったことを軽く詫びて、森を抜けた草原へ向かうよう指示した。




