9. 市場に潜む噂
木造の簡素な宿屋の一室には、夜明け前の名残がまだ漂っていた。細い窓から差し込む朝の光が、埃の舞う空気をゆるやかに照らし出す。石造りの壁は冷たく、湿った木の香りが微かに漂う。風に揺れるカーテンの向こうから、市場のざわめきと馬車の車輪が石畳を擦る音が聞こえていた。
「ほら、飲め」
コンラートが無造作に差し出したのは、蒸気の立つ薬草茶だった。陶器のカップには、濃い琥珀色の液体が揺れている。苦みの強い香りが鼻をついた。
ミハエルは簡素な木製のベッドにもたれ、嫌そうにカップを眺める。シーツは少し乱れ、彼の動くたびにきしむ音を立てた。
「お前、俺を毒殺する気じゃないよな?」
「いいから飲め。文句を言う余裕があるなら大丈夫そうだな」
ミハエルは渋々、カップを持ち上げ、薬草茶を口に含んだ。途端に、顔をしかめる。
「……苦っ」
「当然だ」
「せめて酒と一緒に飲ませてくれよ」
「それじゃ意味がない」
コンラートは冷淡に言い放つと、部屋の隅に腰を下ろし、剣の手入れを始めた。磨き上げられた刀身に、窓から差し込む光が反射して鈍く輝く。
修道士の一人が振り下ろした剣を受けた時、腕に響く衝撃が異常だった。
まるで「人間の筋力ではない何か」が振るっているかのような圧倒的な重量。
しかも、連中の瞳はどこか虚ろだった……感情が欠落した、命令だけを遂行する何かのような――
コンラートは剣を研ぐ手を止め、ミハエルに視線を向けた。
ミハエルはしぶしぶ茶を飲み干したところだった。
木の梁が古びた色合いをしており、長年の使用で染みや傷が刻まれていた。ゆっくりと息を吐くと、まだ完全には抜けきらない「神の血」の残滓が、肺の奥から這い上がるような感覚がした。
「……で? これからどうする?」
ベッドの上に座り、額を押さえるミハエルの顔には、まだどこか倦怠の色が残っていた。
それでも、さっきまでの意識が朦朧とした状態は抜けたらしい。
「……まず、情報を整理しようか」
ミハエルは、葉巻を指で回しながらぼそりと呟いた。
「神の血はあの修道院が出所だ。金の流れからして、あそこで作られたんだろう。でも、ならばどうして……あんなもんを作った?」
そう言いながら、ミハエルは眉をひそめた。
体の違和感を感じながら、ゆっくりと深く息をつく。
コンラートが腕を組み、彼を見た。
「で、だ」
まるでコンラートの怒りなど意に介していないように、 ミハエルは続ける。
「曲がりなりにも予算は教会から出てるんだよなぁ……」
コンラートは鋭い視線を向けた。
「しかし、収支にはない」
「ってことは――」
ミハエルは目を細め、静かに天井を見上げた。
「なぁ……あの院長が単独でこんなだいそれた事やると思うか?」
コンラートは少し考え、院長の狼狽する様子を思い出した。
あの男に、これほど大規模なことを単独で動かせる胆力があるとは思えない。
「……ないな」
「だろ?」
ミハエルはくすりと笑った。
「じゃあ背後がいる」
コンラートは眉をひそめる。
「……教会の誰かか?」
「そ。でもフツーの司祭や神父なんかじゃ無理だな」
ミハエルは指を一本立て、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「予算を動かせるレベルの人間 じゃないと、こんなことはできない。となると、少なくとも……高位の役職者」
コンラートの顔がわずかにこわばる。
「……まさか、枢機卿……?」
ミハエルは無言で笑った。
その反応が、何よりの答えだった。
コンラートは息を呑む。
「なんのために……?」
ミハエルは煙草をくるりと回し、言葉を探すように一瞬目を伏せた。
「……貴方が選ばれし者であるかどうか……試させていただきましょう」
静かに、その言葉を口にする。
ダミアンが口にした言葉だ。
「きっと試練には耐えられない。誰も抗えないのだから」
コンラートは僅かに目を細める。
「耐えられない……?試練なのに?」
「そう」
ミハエルは、空を仰ぐように微笑んだ。
まるで、全てのピースが嵌まる瞬間を楽しむかのように。
「あの試練は、耐えられない者こそが適格者なんだよ」
コンラートは一瞬、意味が分からず沈黙する。
「……どういうことだ?」
「考えてみろよ」
ミハエルは煙を吐きながら、指で机の上を軽く叩く。
「神の血は、幻覚を見せる。その幻覚の中で、誰もが“神の声”を聞く……神の存在を信じる者ならば、当然その声を“信じる”よな?」
コンラートは沈黙した。
ミハエルは僅かに口角を上げる。
「そう、だからこそ、神の声を信じた者こそが適格者なんだよ」
「逆に、もしその声を信じなかったら……?」
コンラートは眉を寄せた。
「異端……か?」
ミハエルは笑う。
「そう、信じることを拒んだ時点で、そいつは異端者だ」
「試練の本質は、神の声を聞けるかじゃない。神の声を信じるかどうかなんだよ」
コンラートの表情が、わずかに引き締まる。
「……信仰を試すための試練、か」
「そう」
ミハエルは淡々と続ける。
「……もしお前が神の声を聞いたら、どうする?」
コンラートは答えなかった。
だが、その沈黙こそが答えだった。
「ま、お前のそういうとこ、嫌いじゃないぜ」
肩を揺らしながら笑うミハエルに、コンラートは「黙れ」と短く吐き捨てる。
「……でも、なんか今ひとつピースが欠けてる気がするんだよなぁ」
ミハエルがぼやきながら、葉巻を指先で転がした。
※
陽が傾き始め、ヴァイデンの街に長い影が落ちる。
夕暮れの冷たい風が、石畳の路地を吹き抜け、行き交う人々の足元に絡みついていた。
ミハエルとコンラートは並んで歩きながら、酒場へと向かっていた。
「……昼間より少しはマシになったか?」
コンラートが何気なく問いかける。
ミハエルは肩をすくめ、口元に手を当てて軽く咳をした。
「お前が手厚い看病をしてくれたおかげで、すっかり元気になったさ」
「お前が元気なときは、ろくなことがない」
コンラートは深々とため息をついた。
彼はもう、ミハエルの「動きたがる性分」を理解している。
だが、それを黙認するわけにはいかなかった。
ミハエルは元々、護衛対象だったはずだ。
本来なら守られる立場であるべきなのに、気づけば自ら危険に飛び込むのが当たり前になっている。
そして、コンラート自身もまた、それに巻き込まれていくのが常になりつつあった。
知らず知らずのうちに、奥歯を噛み締める。
護衛対象が、ここまで無茶をして、しかもそれが当然のように振る舞っている ことに、苛立ちが少し入り混じる。けれど、それでもミハエルは真実をみつけるために突き進んでしまう。
そんな彼に合わせ、コンラートも無言で歩調を合わせた。
そのとき——
「……最近、また誰か消えたらしいな」
路地の角を曲がろうとした瞬間、通りの反対側で交わされる会話が耳に入った。
ミハエルとコンラートは自然な動作で足を緩め、声のするほうへ意識を向ける。
話しているのは、店先で樽を運んでいた二人の男だった。
「今度はどこだ?」
「城壁の外れの宿屋だよ。昨日までいた旅人が、朝には消えてたらしい」
「金目のものは?」
「全部置いたままさ」
「……それは妙だな」
コンラートとミハエルは、視線を交わした。
「そいつは浮浪者じゃなかったのか?」
「いや、普通の旅人だったそうだ。妙な話だろ?金も持ち物もそのままなのに、人だけが消えるんだぜ」
「まるで神隠しだな……」
一人の男が冗談めかして言うと、もう一人が苦々しく首を振った。
「笑い事じゃねえよ。この街じゃ、もう何人目だ?俺たちの仲間も、少し前にいなくなったんだ」
「……まさか、またあの修道院が?」
「さあな……だが、妙な噂は絶えねえ」
その言葉に、ミハエルは目を細めた。
「……これは、ただの事件じゃなさそうだな」
ミハエルはぼそりと呟いた。
「もう少し詳しく聞くか?」
コンラートが低く言うと、ミハエルはフードを深くかぶったまま、人混みを縫うように歩き出した。
「そのために、酒場へ行くんだろ?」
皮肉げに笑いながら、彼は酒場の灯りがちらつく路地へと足を向ける。
コンラートは小さく息を吐き、後を追った。
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