表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異端なる神聖調査官と聖騎士の奇跡事件録  作者: 嘉乃いとね
第1録:神の奇跡か、悪魔の罠か
9/52

9. 市場に潜む噂

 木造の簡素な宿屋の一室には、夜明け前の名残がまだ漂っていた。細い窓から差し込む朝の光が、埃の舞う空気をゆるやかに照らし出す。石造りの壁は冷たく、湿った木の香りが微かに漂う。風に揺れるカーテンの向こうから、市場のざわめきと馬車の車輪が石畳を擦る音が聞こえていた。

「ほら、飲め」

 コンラートが無造作に差し出したのは、蒸気の立つ薬草茶だった。陶器のカップには、濃い琥珀色の液体が揺れている。苦みの強い香りが鼻をついた。

 ミハエルは簡素な木製のベッドにもたれ、嫌そうにカップを眺める。シーツは少し乱れ、彼の動くたびにきしむ音を立てた。

「お前、俺を毒殺する気じゃないよな?」

「いいから飲め。文句を言う余裕があるなら大丈夫そうだな」

 ミハエルは渋々、カップを持ち上げ、薬草茶を口に含んだ。途端に、顔をしかめる。

「……苦っ」

「当然だ」

「せめて酒と一緒に飲ませてくれよ」

「それじゃ意味がない」

 コンラートは冷淡に言い放つと、部屋の隅に腰を下ろし、剣の手入れを始めた。磨き上げられた刀身に、窓から差し込む光が反射して鈍く輝く。

 修道士の一人が振り下ろした剣を受けた時、腕に響く衝撃が異常だった。

 まるで「人間の筋力ではない何か」が振るっているかのような圧倒的な重量。

 しかも、連中の瞳はどこか虚ろだった……感情が欠落した、命令だけを遂行する何かのような――

 コンラートは剣を研ぐ手を止め、ミハエルに視線を向けた。

 ミハエルはしぶしぶ茶を飲み干したところだった。

 木の梁が古びた色合いをしており、長年の使用で染みや傷が刻まれていた。ゆっくりと息を吐くと、まだ完全には抜けきらない「神の血」の残滓が、肺の奥から這い上がるような感覚がした。

「……で? これからどうする?」

 ベッドの上に座り、額を押さえるミハエルの顔には、まだどこか倦怠の色が残っていた。

 それでも、さっきまでの意識が朦朧とした状態は抜けたらしい。

「……まず、情報を整理しようか」

 ミハエルは、葉巻を指で回しながらぼそりと呟いた。

「神の血はあの修道院が出所だ。金の流れからして、あそこで作られたんだろう。でも、ならばどうして……あんなもんを作った?」

 そう言いながら、ミハエルは眉をひそめた。

 体の違和感を感じながら、ゆっくりと深く息をつく。

 コンラートが腕を組み、彼を見た。

「で、だ」

 まるでコンラートの怒りなど意に介していないように、 ミハエルは続ける。

「曲がりなりにも予算は教会から出てるんだよなぁ……」

 コンラートは鋭い視線を向けた。

「しかし、収支にはない」

「ってことは――」

 ミハエルは目を細め、静かに天井を見上げた。

「なぁ……あの院長が単独でこんなだいそれた事やると思うか?」

 コンラートは少し考え、院長の狼狽する様子を思い出した。

 あの男に、これほど大規模なことを単独で動かせる胆力があるとは思えない。

「……ないな」

「だろ?」

 ミハエルはくすりと笑った。

「じゃあ背後がいる」

 コンラートは眉をひそめる。

「……教会の誰かか?」

「そ。でもフツーの司祭や神父なんかじゃ無理だな」

 ミハエルは指を一本立て、皮肉めいた笑みを浮かべた。

「予算を動かせるレベルの人間 じゃないと、こんなことはできない。となると、少なくとも……高位の役職者」

 コンラートの顔がわずかにこわばる。

「……まさか、枢機卿……?」

 ミハエルは無言で笑った。

 その反応が、何よりの答えだった。

 コンラートは息を呑む。

「なんのために……?」

 ミハエルは煙草をくるりと回し、言葉を探すように一瞬目を伏せた。

「……貴方が選ばれし者であるかどうか……試させていただきましょう」

 静かに、その言葉を口にする。

 ダミアンが口にした言葉だ。

「きっと試練には耐えられない。誰も抗えないのだから」

 コンラートは僅かに目を細める。

「耐えられない……?試練なのに?」

「そう」

 ミハエルは、空を仰ぐように微笑んだ。

 まるで、全てのピースが嵌まる瞬間を楽しむかのように。

「あの試練は、耐えられない者こそが適格者なんだよ」

 コンラートは一瞬、意味が分からず沈黙する。

「……どういうことだ?」

「考えてみろよ」

 ミハエルは煙を吐きながら、指で机の上を軽く叩く。

「神の血は、幻覚を見せる。その幻覚の中で、誰もが“神の声”を聞く……神の存在を信じる者ならば、当然その声を“信じる”よな?」

 コンラートは沈黙した。

 ミハエルは僅かに口角を上げる。

「そう、だからこそ、神の声を信じた者こそが適格者なんだよ」

「逆に、もしその声を信じなかったら……?」

 コンラートは眉を寄せた。

「異端……か?」

 ミハエルは笑う。

「そう、信じることを拒んだ時点で、そいつは異端者だ」

「試練の本質は、神の声を聞けるかじゃない。神の声を信じるかどうかなんだよ」

 コンラートの表情が、わずかに引き締まる。

「……信仰を試すための試練、か」

「そう」

 ミハエルは淡々と続ける。

「……もしお前が神の声を聞いたら、どうする?」

 コンラートは答えなかった。

 だが、その沈黙こそが答えだった。

「ま、お前のそういうとこ、嫌いじゃないぜ」

 肩を揺らしながら笑うミハエルに、コンラートは「黙れ」と短く吐き捨てる。

「……でも、なんか今ひとつピースが欠けてる気がするんだよなぁ」

 ミハエルがぼやきながら、葉巻を指先で転がした。



 陽が傾き始め、ヴァイデンの街に長い影が落ちる。

 夕暮れの冷たい風が、石畳の路地を吹き抜け、行き交う人々の足元に絡みついていた。

 ミハエルとコンラートは並んで歩きながら、酒場へと向かっていた。

「……昼間より少しはマシになったか?」

 コンラートが何気なく問いかける。

 ミハエルは肩をすくめ、口元に手を当てて軽く咳をした。

「お前が手厚い看病をしてくれたおかげで、すっかり元気になったさ」

「お前が元気なときは、ろくなことがない」

 コンラートは深々とため息をついた。

 彼はもう、ミハエルの「動きたがる性分」を理解している。

 だが、それを黙認するわけにはいかなかった。

 ミハエルは元々、護衛対象だったはずだ。

 本来なら守られる立場であるべきなのに、気づけば自ら危険に飛び込むのが当たり前になっている。

 そして、コンラート自身もまた、それに巻き込まれていくのが常になりつつあった。

 知らず知らずのうちに、奥歯を噛み締める。

 護衛対象が、ここまで無茶をして、しかもそれが当然のように振る舞っている ことに、苛立ちが少し入り混じる。けれど、それでもミハエルは真実をみつけるために突き進んでしまう。

 そんな彼に合わせ、コンラートも無言で歩調を合わせた。

 そのとき——

「……最近、また誰か消えたらしいな」

 路地の角を曲がろうとした瞬間、通りの反対側で交わされる会話が耳に入った。

 ミハエルとコンラートは自然な動作で足を緩め、声のするほうへ意識を向ける。

 話しているのは、店先で樽を運んでいた二人の男だった。

「今度はどこだ?」

「城壁の外れの宿屋だよ。昨日までいた旅人が、朝には消えてたらしい」

「金目のものは?」

「全部置いたままさ」

「……それは妙だな」

 コンラートとミハエルは、視線を交わした。

「そいつは浮浪者じゃなかったのか?」

「いや、普通の旅人だったそうだ。妙な話だろ?金も持ち物もそのままなのに、人だけが消えるんだぜ」

「まるで神隠しだな……」

 一人の男が冗談めかして言うと、もう一人が苦々しく首を振った。

「笑い事じゃねえよ。この街じゃ、もう何人目だ?俺たちの仲間も、少し前にいなくなったんだ」

「……まさか、またあの修道院が?」

「さあな……だが、妙な噂は絶えねえ」

 その言葉に、ミハエルは目を細めた。

「……これは、ただの事件じゃなさそうだな」

 ミハエルはぼそりと呟いた。

「もう少し詳しく聞くか?」

 コンラートが低く言うと、ミハエルはフードを深くかぶったまま、人混みを縫うように歩き出した。

「そのために、酒場へ行くんだろ?」

 皮肉げに笑いながら、彼は酒場の灯りがちらつく路地へと足を向ける。

 コンラートは小さく息を吐き、後を追った。

お読みいただきありがとうございました。日曜まで毎日更新します!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ