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異端なる神聖調査官と聖騎士の奇跡事件録  作者: 嘉乃いとね
第1録:神の奇跡か、悪魔の罠か
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8. 追跡者の影

 オルシエル修道院ーー院長ダミアン・クラウスの指が震えていた。

 だが、それを悟られぬように、彼はゆっくりと吐息を整える。

 修道院の礼拝堂はひどく静かだった。揺れる燭台の炎が、床にゆらめく影を落としている。まるで神の眼が、彼の失態を冷ややかに見下ろしているようだった。

 ミハエルを取り逃がした。

 それだけではない。

 証拠を与えてしまった。

 このままでは、計画は水泡に帰す。

 だが、ダミアンはまだ終わったとは思っていなかった。

 彼は椅子からゆっくりと立ち上がる。古い木製の床が、軋んだ音を立てた。

 沈黙の中、院長は修道士たちを見回し、低く命じる。

「……修道士たちをヴァイデンへ向かわせろ」

 微かな緊張が、空気を震わせた。

 修道士たちは一瞬躊躇したが、ダミアンの鋭い眼光を受け、すぐに跪いた。

「ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクを消せ。彼が生きて戻れば、すべてが終わる」

 ダミアンの声は静かだった。だが、その冷たい響きが、命じた者の決意を物語っていた。

 修道士たちは顔を伏せ、「御意――」と声を揃えた。

 その時だった。

 礼拝堂の奥、石造りの柱の影から、靴音が響いた。

 ゆっくりと。

 まるで死神が歩いてくるように、響く一歩一歩。

 暗がりから、黒いフードを纏った男が現れる。

 ダミアンの背筋が凍りついた。

 ――バルド・フォン・ヴァルトハイム。

 この人物を前にして、まともに息ができた者はほとんどいない。

 ダミアンの姿が見えた瞬間、修道士たちは反射的に膝をつき、恭しく頭を垂れた。

 ダミアンも、膝をつかざるを得なかった。

「……やれやれ。貴様の失態は、もはや弁明の余地もないな」

 冷たい声が響く。

 バルドの黒い外套が、静かに揺れた。

 ダミアンは乾いた唾を飲み込む。

「バ……バルド様……」

 彼の視線が、針のように鋭く院長を射抜く。

 ダミアンは自分が逃げ場のない檻の中にいることを悟った。

「……貴様に残された道は、ただ一つ」

 バルドは囁く。

 だが、その言葉には微塵の慈悲もなかった。

「ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクを始末しろ。いかなる手段を使ってでも、だ」

 ダミアンは口を開きかけたが、その瞬間――

 首筋に冷たい刃のような威圧感が走る。

 バルドが僅かに目を細めた。

 その視線だけで、ダミアンの背筋に冷たい汗が流れる。

「できるな?」

 問いではない。命令だ。

 それに、拒否という選択肢は存在しない。

 ダミアンは震える声で答えた。

「……はい」

 だが、その直後、圧力に耐えきれず、思わず口を滑らせてしまった。

「枢機卿閣下は……この計画を――」

 空気が凍る。

 バルドの目がすっと細くなった。

 その視線だけで、ダミアンの心臓が止まりそうになる。

 ダミアンは慌てて口を噤んだ。

「……何でもありません」

 バルドはわずかに唇を歪める。

 それは笑みだったが、微塵の温かみもなかった。

「ならばいい」

 彼は低く囁いた。

 そして、一歩、ダミアンに近づく。

「だが――」

 次の言葉が、鋭く礼拝堂の空気を切り裂く。

「貴様の命は、この仕事にかかっていると心得よ」

 ダミアンは息を呑み、深く頭を下げる。

 バルドはそれを一瞥すると、踵を返し、影の中へと消えていった。

 まるで存在そのものが闇に溶けるかのように。

 残されたダミアンは、深く息を吐き出す。

 背中に冷や汗が伝うのを感じた。

 礼拝堂の炎が、揺らめく。

 壁に映る影が、不吉に歪んでいた。

 ダミアンは顔を上げ、修道士たちを睨みつける。

「……すぐに動け。ヴァイデンへ行く」

 その声は、先ほどまでの震えを押し殺し、ただ静かに響いた。



 冷たい朝霧が森を覆い、馬の蹄が湿った地面を踏みしめる音だけが響いていた。夜の名残がまだ空に滲む中、二人の男はヴァイデンの街へと向かっていた。

 ミハエルはコンラートの操る馬の背に乗せられていた。

 自分で馬を操れるほどの体力が、まだ戻っていない。

「神の血」を無理やり飲まされた影響で、頭の奥が鈍く痛み、指先には幻覚の残滓がかすかに絡みついていた。

 喉には未だに鉄の味がこびりつき、寒気と微熱が交互に襲ってくる。

「……おい、もう少しじっとしていろ」

 コンラートが呆れたように言いながら、手綱を引く。

 半ば意識を失いかけたミハエルの体を背に感じながら、苛立ちと焦燥を噛み殺していた。

 理由もなく胸の内をざらつかせる感覚が、不快でならなかった。

 ミハエルは彼の背に半ば寄りかかるようにしながら、ぼんやりと霧の中を見つめていた。

「俺は平気だって……」

 そう言いながらも、ミハエルの額には薄く汗が滲んでいる。コンラートはため息をつくと、片手で手綱を操りながら、もう片方の手でミハエルの額に触れた。

「……熱がある」

「お前、そんなに俺のこと触りたいの?」

「殴るぞ」

 ミハエルはくすりと笑ったが、すぐに深いため息をつき、視線を遠くへと向けた。馬が小さな丘を越えたとき、霧の向こうにヴァイデンの街の輪郭が浮かび上がる。石造りの建物が並び、煙突から細く煙が立ち上るのが見えた。市場にはすでに人の気配がある。

 ここは帝国南部の小さな町で、教会の影響は薄い。異端審問官の目も届かないため、しばらくの間、身を隠すにはちょうどいい場所だった。

「まずは宿を取る」

 コンラートが馬を緩めながら言った。

 ミハエルはぼんやりとその光景を眺めながら、指先で未点火の葉巻を転がした。指の震えは収まってきたものの、まだ完全ではない。これ以上、体力を無駄に消耗するわけにはいかない。次第に瞼が重くなっていくのを感じた。コンラートの背は驚くほど安定しており、馬のリズムに合わせているうちに、体の力が抜けていった。


 ヴァイデンの街が、目前に迫っていた。

お読みくださりありがとうございました。日曜まで毎日19時に更新予定です!

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